◆
水曜日。
一葉は、出先から直接赤坂に向かった。指定されたイタリアンレストランに着くと、すでに高野をはじめ同じチームのメンバーが着席していた。
「じゃ、色々あったけど、お疲れさま。今日はたくさん食べて、飲んでね」
高野が言うと、皆それぞれ「チン」とグラスを合わせた。
「あー、最高!」
時間に遅れまいと駅から走ってきた一葉は、ピルスナーのビールを一気飲みした。
「小山は、今回ほんと頑張ったよな」
2つ上の先輩、鷺坂が調子良く一葉を褒めた。すると隣に座っていた高野も、それに同調した。
「僕もそう思います。クライアントのフォローも丁寧だし、企画段階から意向を汲み取って形にしようっていう気持ちが、ちゃんとクライアントにも伝わったんじゃないかな」
実は、高野から面と向かって褒められたことは一度もない。
「おっ!高野さんに褒められるとは!」と周りに茶化されたが、一葉は内心飛び上がるほど嬉しかった。
「いや、本当に今回は、小山さんがいなかったら、成功しなかったかもしれない」
高野から褒められ、胸がいっぱいになる。
「いえ、高野さんがフォローしてくれなかったら、頑張れなかったと思うので…」
思わず本音が漏れ、一葉はハッと我に返った。
誰かが酔った勢いで「高野さんって、奥さんとどこで知り合ったんですか?」とプライベートに突っ込む。
すると「大学の同級生」とだけ高野は簡潔に答えた。
「奥さん大事にしてそー」と新人女子が言う。
しかし、高野は何も言わないまま、「ワイン、ボトルで入れようか」と店員に向かって手をあげた。
「小山さん、赤と白。どっちがいい?」
「うーん、迷います」
不意に振られて一葉は戸惑う。
「どっちかというと白。でも、シャンパンとかスパークリングが好きです。あまり詳しくないんですけど」
「じゃあ、プロジェクトが成功した打ち上げということで、スプマンテを開けますか」
そう言うと、高野はスパークリングワインをオーダーした。
◆
3ヶ月後。
「小山さん、引き継ぎは終わった?」
高野に声をかけられ、一葉は振り向いた。
「口頭での引き継ぎは全て終わっていて、PDFの引き継ぎ資料は、クラウドにまとめておきますね」
一葉がこの会社に出社するのは、あと2日だ。
3ヶ月前、あのプロジェクトの打ち上げに参加した数日後、懇意にしているクライアント担当者と、関係のある会社から「うちに来ませんか」と一葉は声をかけられたのだ。
今の仕事に不満はないし、いい環境だと思う。
だが、一緒に仕事をする時間が増えれば増えるほど、彼の人間性を知り、好きという気持ちが溢れてくる。一葉は、いつからかこの状況を「辛い」と思うようになっていた。
高野は既婚者で、恋愛関係に発展することさえ許されない。
時計の針は12時を少し回っていた。
「高野さん、お昼でもご一緒しませんか?」
一葉は、思い切って高野をランチに誘ってみた。
最後の思い出くらい作ってもいいだろうと、数日前から声をかけるタイミングを計っていたのだ。
「いいね。でも、今日は急用で出ちゃうから、夜はどう?サクッと」
返ってきたのは、想定外の答え。
一葉が即答すると、「今日はこのまま戻らないから、場所は後で連絡します」と言って高野は出かけて行った。
夜、指定されたのは、麻布十番にあるビストロだった。
「よく来るんですか?」
「ワインが好きだから、ワイン仲間と時々集まる場所なんだよ」と高野は答えた。
料理は高野が慣れた様子でオーダーしてくれた。
「あの、今までありがとうございました。私、ちゃんとお礼を言いたくて」
「いや、こちらこそ一緒に仕事ができて楽しかった」
高野の「楽しかった」というフレーズが刺さり、一葉は思わず目を逸らす。
声に出して言いたかったのは、お礼なんかじゃない。
決して言葉にしてはならない気持ちを必死で封じようとして、一葉の頬に一筋の涙が伝った。
「参ったな…」
高野は小さく呟いた。
2人の間に沈黙が流れる。
どこかのテーブルで、ポン!とコルクを抜く音がした時、高野が言った。
「転職のお祝いに、僕の大好きなシャンパンをご馳走させて」
会社では見たことのない、優しい眼差しだった。
高野がオーダーしたのは、『ルイナール ブラン・ド・ブラン セカンドスキン』。
まるで繭のような独特の質感の紙パッケージに覆われたボトルが印象的だ。
「パッケージが素敵なので、このまま用意させていただきました。こちらのルイナールは、世界で初めてのシャンパーニュメゾンで、セカンドスキンと呼ばれるこのパッケージは、プラスチック不使用、100%リサイクル可能なサステナブルなパッケージとなっております」
ソムリエがパッケージを解くと、透明のボトルから黄金色の美しいシャンパーニュが輝いている。
それはグラスに注がれると一層、宝石のように煌めき、まっすぐな泡を立ち上らせた。
「フルーティーだけど少し香ばしい感じもして、美味しいです」
果実を思わせる酸味に程よいコクとキレがある。爽やかで上品な味わいは、高野のようだと一葉は思った。
「2年以上の研究開発を経て、このデザインが完成したらしいよ。地下38メートルにあるルイナールのセラーをイメージしていて、ボトルを皮膚のように包み込みワインを守る。
企画を立て、形にすることを仕事にしている身としては、この発想もすごいなって」
そう言うと、高野も嬉しそうにグラスに口をつけた。
― 私のために、大好きなシャンパンを…。
このワインのボトルが空くまでは一緒にいられる、高野と一緒にいられる時間が一葉には、ただ愛おしかった。
こうして同じ空間でグラスを傾ける時間は、本当に幸せで、同じくらい切ない。
ゆっくりと食事を進めながら、これまで話したことのなかったことを話題にした。大学時代のこと、好きなもの、好きな場所…。
ただ一つ、恋愛というワードを意図的に除いて。
さっきまで黄金色に輝いていた美しいボトルは、すっかりただのクリアボトルになっていた。
夢のような時間が終わろうとしているのだと一葉は思った。
「高野さん、最後にお話できて嬉しかったです。次の職場で教えていただいたことを発揮できるよう頑張ってみます」
その瞳には、小さな決心を宿していた。
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