2023.08.23
東京ウェンズデー Vol.1昨日のヒルズクラブの会では、若手の映画監督とかいう男に向かって「家族がいるっていうのは良いぞ」なんて大口を叩いていたのに…。
実際の俺は、別居生活3ヶ月目。
酒が入っていたとはいえ、つまらない見栄を張ってしまったことが情けない。
そんなことを考えながらボーッとメニューを見ていた俺が、途方に暮れているように見えたのだろう。ふと、隣の女性客が気さくに話しかけてきた。
「メニュー、めちゃくちゃ多くて悩んじゃいますよね」
驚いてキョトンとしている俺に、女性客はニコニコしながら続ける。
「どれも美味しいですけど、ここはコロッケが超絶品ですよ!絶対、オススメです」
「あ、ありがとうございます。じゃあ、頼んでみます」
― よりによって、コロッケか。
妻が出した最後のメニュー。あまりの皮肉に、乾いた笑いが漏れる。
冷たいビールとコロッケを注文すると、俺はすっかり手持ち無沙汰になり、なすすべもなくBGMのピアノに耳を澄ました。
ピアノ。
コロッケ。
本当に皮肉なことに、どちらも、家族を失うことになったキッカケだ。
揚げ物が苦手な妻は、コロッケを失敗することも多かったため、あまり作らないように頼んでいた。そもそも、コロッケをそんなに美味しいと思ったこともない。
そして、ピアノは…。
「音楽で食べていける確率はとてつもなく低い」「ピアノなんて続けても意味がない」と力説して、俺は5歳になる娘にピアノをやめさせ、プログラミングを習わせようとしたのだ。
娘は、ピアノが大好きだったのに。毎週水曜日のレッスンを、楽しみにしていたのに──。
娘に、失敗してほしくない。
娘が可愛いからこその、そんな親心のつもりだった。どれだけ強引なことを言っていたのか、冷静になってみればわかる。
けれど、そうして飛び出したのが、妻のあのセリフだ。
「あなたは、挑戦が本当に怖いのね…」
仙台の実家にいる2人を迎えに行けないまま、いつのまにか3ヶ月という時が過ぎていた。
多忙が理由なのはもちろんだけれど、図星でへそを曲げた自分が恥ずかしくて。2人に合わせる顔がなくて。
それ以来ただでさえ多かった外食が、毎日になってしまった。
生ビールを喉に流し込みながら頭を抱えていると、「お待たせしましたぁ!」という威勢のいい声とともに、かたわらに皿が置かれた。
揚げたてのコロッケ。ジクジクと、衣の心地よい音がしている。
思わず唾を飲み下すと、俺は箸の先でその振動を感じながら、子どものようにかぶりつく。
「あっつ…!」
熱く、香ばしく、素朴な甘みが口の中に溢れる。
火傷するほどの熱さに喘ぎながらビールを流し込むと、どんな高級フレンチのロッシーニにも、どんな高級寿司のマグロにも勝るとも劣らない満足感が俺を包んだ。
「あなたは、挑戦が本当に怖いのね…」
頭の中にリフレインする妻の言葉は、本当だ。
だから、そんな自分を少しでも変えたくて、失敗を恐れ過ぎない自分になりたくて──。
本当に些細なことだけれども、こうして水曜日はせめて、新しい店に飛び込むようにしてみている。
娘が楽しみにしていた、水曜日だから。
― ウマい…!コロッケって、こんな美味しかったっけ。
もちろん、ハズレの店に当たってしまい、腹が立つこともある。
けれど、“開拓の水曜日”をルーティンにしてから、こういう小さな幸せと新しく出会える喜びに、気づけたような気がしていた。
知らない店の揚げたてのコロッケを頬張りながら、あの夜のことを思い出す。
妻の揚げたコロッケ。箸すらつけなかったけれど、あのコロッケは日頃の失敗したものとは違って、これくらいカラッと揚がっていたような気がする。
きっと妻は俺とは違って、失敗を挑戦に変えられる女性なのだろう。
― 俺も、あいつみたいになれるかな。娘も、あいつみたいな女性に育ってほしい。
来週の水曜日は、数ヶ月ぶりの完全オフの予定だ。少し前から、仙台行きのチケットを用意してある。
3枚分の、復路のチケットも。自宅には、アップライトのピアノも。
これほど大きな失敗をした俺は、取り戻せるだろうか。
心の底から妻と娘に謝って、もしも許してもらえたら…仙台でどこかウマい店を探してもいいかもしれない。
水曜日だから、下調べは無しだ。
家族連れOKのウマい店が、ちょうどよく開拓できればいいのだけれど。
▶他にも:夏の恋:「まるで家政婦…。でも、結婚できるなら我慢」経営者の彼と付き合う女の本音
▶Next:8月30日 水曜更新予定
西麻布の創作居酒屋。コロッケをすすめた女性の、水曜のルーティンは
満足感がロッシーニや本マグロを上回ったなんてよっぽど美味しかったんだろうなと。 (全く伝わってはこなかったから残念)
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