
東京ウェンズデー:実は、妻と別居して3ヶ月。公私共に絶好調に見える39歳男の本音
そもそも俺は、失敗するのが大嫌いだ。
メディアではコラムニスト、コメンテーターとして知られるようになった俺だけれど、もともとの畑は統計学と社会学ということもあるのかもしれない。
日本人男性の平均寿命は、およそ80歳。
俺は今39歳。死ぬまで残り41年。
1年は365日だから、41×365=14,965日。
朝は食べないから、1日2食。14,965日×2食=29,930食。
もちろん、人より酒も飲む不摂生な俺のことだ。平均寿命まで長生きすることもないだろう。
老いたら今と同じようには食べられないはずだから、ざっと少なく見積もって2万5千。いや、2万がいいところか。
2万食。
それが、俺が残りの人生で食べる食事の回数。
食は、人間の幸福の根幹だ。美味しいを食べること=人間の幸福と言っても過言ではない。
俺はその貴重な2万食を無駄にしたくない。
新規の店を開拓せずに、いつもの行きつけの店に行くようにすれば失敗することもない。
それに、SNSなどが発達したこの社会では、失敗しなくて済む情報がそこらじゅうに溢れかえっている。
昨日開催されたレギュラー番組の決起会も、プロデューサーに頼んで行きつけのヒルズクラブにしてもらった。
安定の美味しさ。安心のサービス。
そう。ハズレの店に入って不幸になるリスクなんて、少したりとて犯す意味はないのだ。
それなのに、なぜこんな”開拓の水曜日”というルーティンを持っているのか…。
その理由を改めて反すうしようとした瞬間、ふと、食欲をそそる香りが鼻をくすぐった。
西麻布の路地裏。一見古ぼけた民家のようにも見えるが、入り口には清潔な暖簾がかかっている。
― 何屋かもわからない。もしかしたら、とんでもないハズレかもしれないな。
そう訝しみながらも、意を決して暖簾を掻き分け、引き戸を開ける。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
20代半ばの男性店員のフランクな問いかけに、無言で人差し指を一本伸ばす。
意外にも広い店内には、小さな音量でクラシックピアノが流れている。
ほどよく混雑した座席の中で、俺は女性2人組の隣になるカウンター席に通された。
店内には、デートや友人同士の小さなグループのほか、一人客もちらほらといるようだ。
家族連れが一組もいないことに、ホッと胸を撫で下ろす。
どうやら、創作居酒屋といった類の店らしい。普段の俺ならば、まず選ばないタイプの店だ。
筆で書かれた長々としたメニューを前にして、俺は、なぜこんなところに辿り着いたのかを改めて思い返した。
◆
「あなたは、挑戦が本当に怖いのね…」
妻がそう言ったのは、3ヶ月前のことだっただろうか。
ポツリと呟いた妻の目に、凍えそうなほどの冷たい悲しみが滲んでいたことは、はっきりと覚えている。
けれどその時の俺は、今思うと図星を突かれたからなのだろう。頭に血がのぼってしまい、彼女の悲しみを受け止めることができなかった。
「俺が?挑戦しないって?本気で言ってるのか?」
コメンテーターとしてそこそこ重宝されて、本も重版がかかるくらいには売れて、講演だって途絶えない俺が?
目の前に並んだ夕飯のコロッケに手もつけず、俺は怒りに任せて書斎へと逃げ込んだ。
その翌日のことだ。
妻と娘が、荷物をまとめて家を出て行ったのは。
この記事へのコメント
満足感がロッシーニや本マグロを上回ったなんてよっぽど美味しかったんだろうなと。 (全く伝わってはこなかったから残念)