SPECIAL TALK Vol.101

~地方から日本を変えていきたい。上京しても忘れなかった原体験がある~


みんなに頼られる学級委員長だった


金丸:早速ですが、菅さんは秋田県のお生まれですよね。

菅:そうです。雄勝郡の秋ノ宮村で生まれました。私がまだ子どもの頃に合併して雄勝町になり、さらに平成の大合併によって、現在は湯沢市になっています。

金丸:故郷に帰ることはあるのですか?

菅:毎年お盆には帰っています。

金丸:同級生が総理になったら、周りはどのような反応なんでしょう。変わったりするのですか?

菅:今でも昔なじみの人たちからは呼び捨てですよ。

金丸:では、「菅、元気にしてたか」と?

菅:「義偉」ですね。あのあたりは名字が「菅」ばかりだから(笑)。

金丸:この年末年始も帰られたのですか?

菅:年末年始はこちらにいました。うちのあたりは豪雪地帯で、かなり雪が降るので。

金丸:菅さんのご実家は農家でしたよね。

菅:そうです。米農家ですが、畑もやっていて。のちのちはイチゴもやりました。

金丸:ごきょうだいは、いらっしゃるのですか?

菅:4人です。上に姉がふたりいて、あとは弟です。

金丸:ということはご長男なのですね。菅さんは少年時代、どんなお子さんだったのですか?今の菅さんから考えると、昔からリーダーシップがあって、面倒見がよかったのではないかと。

菅:リーダーシップというほどではないと思いますが、わんぱくで、結構みんな頼ってきてくれていたと思います。実家が小学校のすぐ近くにあったんですが、朝、友達が必ずうちに寄って、お茶を飲んでから学校に行くんです。

金丸:お茶ですか?朝って、みんな学校に駆け込むものかと思っていました。優雅ですね。

菅:当時は、かなり遠いところから通っている子もいましたからね。

金丸:では、そこでひと休みしてから学校に。みんなが集まる中心に、菅さんがいらしたんですね。

菅:面白いのが、授業の時間になっても教科書を出さない子がいて。先生が「教科書を出しなさい」と言っても聞かないんだけど、私が言うと出すんですよ。

金丸:それはなぜでしょう?

菅:分かりません。

金丸:お茶仲間だったからですかね。

菅:そうかもしれませんね(笑)。

金丸:成績はいかがでしたか?

菅:いい方でしたよ。

金丸:ということは、学級委員をされていたとか?

菅:私はずっと委員長でした。

金丸:それは格好いい!スポーツも何かされていたのですか?

菅:子どもの頃は野球をやっていましたね。ポジションは3番、サードで。

金丸:ひょっとして長嶋茂雄?

菅:そうです。長嶋さんの大ファンで。中学3年生のとき修学旅行で東京に来て、神宮球場で初めて巨人戦を観ました。今でも鮮烈な思い出です。

金丸:私は根っからの阪神ファンなのですが、長嶋さんのファンなら許せます(笑)。なんといっても、偉大な方ですから。

「無理だ」と秋田を飛び出し東京で就職するも……


金丸:小・中・高と地元の学校に行かれたのですか?

菅:そうですね。高校はうちから一番近い県立湯沢高校に進んだんですが、通学に片道2時間かかっていました。

金丸:最寄りで2時間ですか。

菅:しかも、真冬には、雪が2メートルくらい積もるんですよ。

金丸:そんなに!?通学もひと苦労ですね。

菅:ひと苦労どころか、バスも走らなくなるので通えなくなる。だから、下宿しなきゃいけなくて。

金丸:私が育った鹿児島も、高校の同級生に離島出身の人がいて、みんな下宿していました。東京で生まれ育った人だと、そういう地方の実情が肌感覚で分からないですよね。

菅:それはそうでしょうね。東京だと冬でもバスや電車は変わらず動きますし。秋田って都道府県別で見ると、平均年収は下から5本の指に収まります。一方で、子どもの学力はトップクラスなんです。

金丸:秋田県は小中学生対象の全国学力テストで、毎年全国トップクラスですよね。ところが、大学進学率は低い。これは鹿児島も同じです。もともと条件が不利なところをカバーして初めて平等になると思いますが、そこには目が行き届かないというか、「人口が少ないところに、お金を出してどうなるの?」と費用対効果が議論される。これはどうにか解決すべきだと思います。

菅:そう思いますが私にとっては、あれだけの自然の中で生まれ育ったことは、結果的にはよかったと思っています。

金丸:そうですね。都会にいる人たちにはまったく経験できない世界ですから。ところで、子どもの頃はお父様の仕事を手伝われたのですか?

菅:田植えや稲刈りは家族総出でした。当時は学校に、田植え休みや稲刈り休みがありましたから。

金丸:その頃、菅さんは農業という仕事をどのように見ていらっしゃいましたか?

菅:大変な仕事だ、というのに尽きます。両親は毎朝5時くらいに畑に出て、ひと仕事終えて帰ってきた頃に、私たちが起きるという生活でした。

金丸:途中、米農家からイチゴ農家に転向されたということですが。

菅:父が「米農家を続けていては食えない」と、イチゴに注目しました。生産や出荷の組合を自分で立ち上げ、さらに高い値段で売るために、地元の農業試験場と一緒に出荷の時期を遅らせる研究をして。

金丸:ものすごい行動力ですね。たしか、地元の農協と対立していたと伺いましたが、そんな気概のあるお父様を間近で見ていて、いずれ菅さんが継ごうとは思わなかったのですか?

菅:正直、無理だと思いました。畑も限られていたし、稼ぐにも限度がある。だけど長男坊だから、当然のように継ぐことを期待されている。それが嫌でした。東京に出たら何かいいことがあるんじゃないかと、高校で就職先を紹介してもらいました。

金丸:お父様と話し合いはされたのですか?

菅:ほとんどしていません。でも、東京に出てきて就職したものの、思い描いていたような夢はないと感じました。そこから秋田に帰る、帰らないというのがしばらく続いて……。私が一番思い出したくない青春時代です。

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