「相談があるの、座って」
会議室に入ると、上司は、梨子にイスを勧めた。
上司は、この法律事務所に長年勤めている、バックオフィスのリーダー的存在である。彼女から直々に呼び出された梨子は、緊張した面持ちになる。
「相談とは、なんでしょうか」
「奥田さん、新しいプロジェクトのメンバーになってもらえない?」
それは、上司が先導する、“オフィス環境整備プロジェクト”への誘いだった。
この度、梨子が勤める法律事務所は丸の内から虎ノ門に事務所を移転する。バックオフィスの精鋭が集められ、新しいオフィスのレイアウトなどを決める重要なプロジェクトだ。
プロジェクト内の働き次第では、今後のキャリアの大きな足掛かりとなるだろうと、社内でも大きな注目を集めていた。
「奥田さん、普段の仕事も正確で、納期もきちんと守れるし、今度はプロジェクトでぜひ活躍してもらいたいなと思っているのよ」
突然の打診に驚きながらも、少し考えて丁寧に返事をした。
「…お話はうれしいのですが、今回は辞退させていただきます」
遠慮がちに言う。上司は、黙ったまま小さく首をかしげた。
「今回のプロジェクトは、表立って名前が出ることがあまりないバックオフィスのメンバーにとって、大きなチャンスです。このような責任あるプロジェクトは若手の私にはまだ荷が重いですし、他に適任の方がいらっしゃると思います」
「でも、荷が重いっていうけれど…奥田さんって、もうすぐ勤めて10年よね?まあいいわ。この件は、バックオフィス全体で公募をかけることにします。
忙しいところ突然呼んで申し訳なかったわね。もう戻っていいわよ」
◆
席に戻ると、スマホに父・紘一からのLINEが入っていた。
『紘一:今日のお昼休みは、予定通りにランチ行けるかな?ブリーズ・オブ・トウキョウ予約しておいたよ』
― やった!今日は良いお肉入っているかな?
時刻はもうすぐ12時。
梨子は浮足立ってオフィスを後にした。
丸ビル36階のフレンチ、『ブリーズ・オブ・トウキョウ』に足を踏み入れると、奥のテーブルに父親がすでに座っていた。
「お父さん!午前の会議、長引かなくてよかったね。この後の予定は?コースにしても時間大丈夫?」
梨子は、父親と同じ法律事務所で働いている。梨子の就職の際に、父親からの大きな口添えがあったことは周知の事実だ。
「梨子、仕事は慣れたかい?」
「お父さん、それ聞くの何回目?私もうすぐ入社して10年よ」
「そうか、ごめんごめん」
梨子は、窓から見える丸の内のパノラマをカメラに収めながら言う。
「たしかに10年経っても、見た目はあんまり変わってないけどね。
私みたいなタイプの色白肌は“ブルべ”っていって、プチプラコスメによくあるような色合いのメイクをすると、顔色が悪く見えるんだって。だからお化粧には気をつけてるの」
「梨子はお化粧なんてしなくても、可愛いと思うけどなあ」
父親は、いつも梨子に甘い。梨子は、父の話を聞き流しながら、“推し”であるアメリカのボーイズグループのことを考えていた。
ジューシーな和牛にナイフを入れているとき、父親が言った。
「そういえば家に、中高の同窓会の案内が来ていたよ」
― 同窓会か。誰が来るんだろう…あの人も来るのかな?
梨子は、憧れの人を頭に思い浮かべた。思わず口元がゆるむ。
「随分うれしそうだな。後でデパートで似合う化粧品でも買って、おしゃれして行っておいで」
父親は、梨子の姿を見て目を細めながら、1万円札を数枚差し出すのだった。
この記事へのコメント
仕事への情熱とか責任感とか全然ない所は上記の二人よりダメ子かも。