「いってきまーす!」
小学生くらいの子どもの、元気な声が聞こえる。そこはどう見ても、ファミリー向けのマンションだった。
― やっぱり隆志、結婚してたんだ。
ショックを受けた私は、頭が真っ白なまま衝動的に彼へLINEを送った。
美沙:私のこと、騙してたんだね。もう別れましょう。
そしてスマホを握りしめたまま、呆然と窓の外を見つめる。すると降車する気配のない私を不審に思ったのか、タクシーの運転手がいきなり声を掛けてきた。
「お客さん、降りないんですか?…あ、あとそっちじゃないですよ。その隣のアパートね」
その言葉に私は、視線をデザイナーズマンションからやや左へと移す。
「…えっ?」
運転手が指さした細い路地の先には、高級住宅街からはじきだされたような2階建てのアパートが、ひっそりとたたずんでいたのだ。
外壁は薄汚れていて、築40年は経っていそうだ。
「えっ、隆志はここに…?」
私は混乱したままタクシーを降りて、アパートの隅にあったポストを覗き込んだ。そこには“203号室・高橋隆士”と書かれている。
ポストからはいくつか郵便物がはみ出していて、その中には大手映画会社の採用担当からの書類も見えた。
そして私は、ある間違いに気づいてしまったのだ。
彼の名前を“隆志”だと思っていたが、本当は“隆士”だったということに。慌ててバッグの中から彼の免許証を取り出すと、そこにはやはり“高橋隆士”と書かれていた。
― LINEの名前はローマ字だったから、気づかなかったんだ。
私はネットの検索画面を立ち上げ、震える指で彼の名前を入力する。そのときギィと鈍い音を立てて、203号室のドアが開いた。同時に隆士から着信が入る。
とっさに私はアパートの隅に隠れ、彼からの電話に出た。
「もしもし美沙!?急に別れるって、どうしたん…?」
アパートの玄関から蝶ネクタイを付けた隆士が、焦った様子で飛び出してくる。
「今から仕事なんやけど、終わったら会わん?俺、頑張るから。なあ美沙、聞こえてる!?」
私は黙ったまま“高橋隆士”の検索結果に目をやった。
そこには隆士が、タキシード姿で満面の笑みを浮かべている写真が表示されている。
どうやら彼は売れっ子プロデューサーなんかではなく、売れないお笑い芸人だったみたいだ。
現在は早朝に放送されている通販番組のMCを不定期で務めながら、いくつかのバイトを掛け持ちしているようだった。
自己紹介欄を見ると、私と同じ恋愛小説が好きと書いてある。
その小説は、お嬢様に恋をしてしまった貧乏な男性が、自分はお金持ちだと彼女に嘘をつき続けるバッドストーリー。…のように思えるが、実はその嘘を本当にしていくラブストーリーだ。
私はポストからはみ出ている映画会社の封筒を見つめ、小さくつぶやいた。
「…もう少し、騙されてみようかな」
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この記事へのコメント
鈍臭い世間知らずなお嬢様が勘違いしただけよね。