隣の夫婦は、他人事
彩佳は、32歳の専業主婦。昌也とは結婚3年目だ。
結婚前は、メガバンクの一般職として働いていた彩佳だが、夫のサポートに徹するという大義名分で結婚を機に退職した。
昌也は公認会計士で、父親が代表を務める会計事務所の副所長。近いうちに、事務所を継ぐことになっている。
住まいは日本橋の2LDKマンションで、昌也の父親が結婚祝いにプレゼントしてくれたもの。
呉服に和菓子、江戸前寿司など老舗がひしめく界隈にひっそりと佇むマンションで、住人も落ち着いた人ばかり。治安が良く、上品な街並みが気に入っている。
実家が太く、将来を約束された夫を手に入れた彩佳は、退職後は、料理教室やフラワーアレンジメント教室、パーソナルトレーニングに通う、悠々自適な“奥さまライフ”を満喫してきた。
自由に使って良いと渡されているカードがあれば何でも買えるし、欲しいものはそれとなく伝えておけばプレゼントしてくれる。
義両親は、一人息子の昌也がかわいくて仕方ないらしい。
頻繁に食事に誘われるのは少し面倒だが、自分の力では到底行けないお店ばかりなので、美味しい食事をご馳走になる会だと彩佳は割り切ることにしている。
◆
出産前の最後の晩餐から遡ること、3ヶ月前―。
「おめでとう、玲子!あゆちゃん、なんてかわいいの!」
彩佳は、北品川にある友人・玲子の自宅を訪れていた。彼女は1ヶ月前に出産したばかりだ。
あゆ、と名付けられた赤ん坊は、玲子の腕の中ですやすや眠っている。
小さな手をぎゅっと握りしめ、たまにモゾモゾと動いてみせる。そのすべてが愛おしかった。
「彩佳もすぐじゃない」
そう言って笑いかけた玲子だが、ソファに目をやると何かを発見したらしく顔をしかめた。
「もう、まただ。本を片付けてから出かけてって言ったのに!本当に頭にくる!」
ソファの端に、玲子の夫の読みかけと思しき本が2冊ほど置かれている。
広々としたソファなので、さほど気にならなかったが、玲子の怒りモードは止まらない。
「昨日だってね、あゆが寝ている間に帰ってきたんだけど、デカい声で、ただいまなんて言うから、あゆが起きちゃったのよ?」
「旦那さんも悪気があったわけじゃないと思うんだけど…」
本を片付け忘れたことも、ただいまと挨拶するのも、そこまでイライラするほどのことだろうか。
彩佳は、玲子の夫のことがなんだか不憫に思えて、フォローしてしまう。
「彩佳もそのうちわかるよ!やることなすこと、ほんとにイライラする。旦那への愛情は薄れるばかりだわ」
玲子の言葉に、「そうかな」と苦笑いしながら彩佳は首をかしげた。
◆
帰りのタクシーの中でも、彩佳は窓の外をぼんやりと眺めながら、玲子のことを思い出していた。
彼女の夫の直樹には、彩佳ももちろん会ったことがあるが、ちょっと頼りないところがある。
ただ、しっかり者で姉御肌な玲子と直樹は相性が良さそうでもあった。
― そうは言っても、子どもが生まれると、頼りない夫に嫌気がさすのかなあ。
「その点、昌也は大丈夫かな」
昌也は、経済力も申し分ないし、妊娠や出産、育児にも理解がある。
彩佳が妊娠してからというもの、昌也は彼女以上に勉強していたし、教育にも力を入れたいと、モンテッソーリ教育やレッジョ・エミリア教育の本を読み漁っていた。
赤ん坊を迎える準備を進めるなかで、彼との絆はむしろ強まったと感じている。
「私たちは、絶対に大丈夫。昌也は、素敵なパパになるはずだもの」
彩佳は、そう信じて疑わなかった。
この記事へのコメント
よく聞く話。ようやく寝た直後にグラスに氷ガチャガチャや、TVつけたら爆音だったとか。