ワゴンから前菜をいくつか選んだあと、メインのミラノ風カツレツとバジリコパスタをオーダーした。
いつも頼んでいた馴染みのメニュー。彼はグルメだったので有名店にも散々行ったけれど、『CHIANTI』だけは特別だと言っていた。
「いろんなレストランに行っても、結局ここに戻ってくるんだよ」
そんな彼に碧は「そうやっておじさんになっていくのよ」なんて憎まれ口を叩いていたが、碧自身も、東京の夢がたくさんつまったようなこの店が大好きだった。
もっといろんな世界を覗いてみたい、すごい人と出会ってみたい。東京という地で、これから大きく羽ばたきたい。
ここにはそんな想いが瞬間冷凍されているようで、体の芯からなにか、熱いものが湧いてくるようだった。
『CHIANTI』の味や雰囲気ももちろん大好きだけれど、当時の希望や思い出がたくさんつまった懐かしい気持ちも含めて、碧にとってここは大切なレストランなのだ。
バジリコパスタに粉チーズをたっぷりかけ、1口食べる。バジリコと大葉の香りが、鼻孔をくすぐった。
あの時の自分が、今の自分を見たらなんて言うだろう。ふと、そんなことを考える。
碧が考えていた以上に、フリーアナウンサーの世界は厳しかった。キー局でレギュラー番組を持つなんて、ほんの一握りのフリーアナウンサーのみが持てる夢だ。
当時、目の前に広がっていた無限の可能性が無限ではないこと、そして東京が夢の国ではないということを、徐々に身をもって理解していった。
だけど碧はそれでも腐らず、自分なりにもがいて頑張ってきたつもりだ。
地上波での仕事は難しかったから、知り合いのツテを辿ってメディアに度々出る起業家・森川幸助にアタックし、彼のYouTubeチャンネルの進行役を買って出た。するとそれを見ていたほかの起業家からオファーがあり、イベントの司会やマナー研修などの仕事が舞い込んでくるようになった。
傍から見たら30手前の落ち目のフリーアナウンサーかもしれない。でも北海道から出てきた自分を少しでも認めてあげたいと、必死にいまのポジションを築いてきたのだった。
メインのミラノ風カツレツも食べ終えると、デザートのワゴンが運ばれてくる。
タルトやプリン、シフォンケーキにティラミス…。綺麗に並べられたデザートを見て一気に心が華やいだ。プリンとティラミスが絶品だったことを思い出し、その2つといくつかのケーキを頼む。
雄太郎に出会ったのは、碧の頑張りを認めてくれた森川幸助が「YouTubeで君の熱心なファンがいる」と引き合わせてくれたことがキッカケだ。
出会った当時、実は雄太郎には婚約者がいた。3歳下の幼稚舎出身の女性で、碧なんかよりずっと彼にふさわしい女性だった。
でもお互いどうしようもなく惹かれ合っていたので、必死に周りを説得して、彼の両親を説得して、碧たちは結ばれた。後にも先にも、あれほど情熱的にひた走ることはないと思う。
ティラミスを食べ終えると、ずっと鳴らなかったスマホがブブっと震えた。
― 別れ話、だったりして…。
恐る恐るメッセージを開くと、そこにあったのは「ごめん」の一言。そしてすぐに一通の新着メッセージが届いた。
<俺はやっぱり、碧と一緒になりたいんだ。>
彼らしい、シンプルで温かい言葉。
何をどうあがいたって、雄太郎が生まれた家は変わらないのだ。
でももう、碧は何も知らない子どもじゃない。夢だけ見て現実を知らない若者でもない。きちんと自分なりの折り合いをつけて、感情的にならず彼と向き合おう。
不思議と、そんな前向きな気持ちになっていた。
東京は、思ったような夢の国ではなかった。でも必死にもがき続けた結果、自分を認めてもらえる場所ができ、愛する人にも出会えたのだ。
碧は最後、「これを飲むと寝つきがよくなるんだ」と元彼がよく飲んでいたレモンチェロを注文する。
濃くて甘いはずの液体が、意外にすっと喉を通っていった。
― 私は次、いつ『CHIANTI』に来るんだろう。
大切なレストランだからこそ、頻繁にきて当時の思い出を日常で塗り替えたくない。また何かに行き詰ったとき、1人で来ようと思った。
きっとここはまた、自分の背中を押してくれる。
<私こそごめん。そろそろ帰るね。>
碧はそうメッセージを打ち、席を立った。
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東京タワーを追い続けた男女の10年
この記事へのコメント
キャンティのメニューなどもしっかり下調べされてるし。
これからも楽しみです。
一話完結でポジティブな終わり方なのもまたよき。