カランと、小気味良いベルの音が鳴り響き、マスターがこちらを向いた。
暖色系の光に包まれる店内にはジャズが流れている。そもそもお酒すらほとんど飲まない私が初めて一人でバーに入るというのに、不思議と緊張はしなかった。
「何にします?」
無言で手前のカウンターに促され、座るやいなや、マスターは砕けた口調でそう言った。
距離の近づいたマスターの顔が、キャンドルのあかりに照らされる。
ぱっちりした二重に、高い鼻筋。多分、歳は私と同じか少し上くらい。日頃から鍛えているのだろうか、黒いシャツから覗かせる首筋がたくましい。180cm近くありそうな身長も相まって、男らしさがダダ漏れている。
彼の耳に、シルバーのピアスがきらめく。お堅い会社員としての生活を送っている今、男性のピアスを目にする機会はそうない。
ごつめなピアスのアウトローな雰囲気のせいなのか、なぜだか鼓動が高まる。その音が彼にバレてしまうのではと慌てた私が「お任せで」と早口で言うと、彼はシェイカーを手に取った。
密室に2人。初めての、一人で来るバー。直人との口論なんてすっかり忘れて、自分の突拍子もない行動に対する驚きと新鮮さに、心が占拠されていた。
気づくと、シャカシャカとシェイカーを振るマスターの姿を茫然と見つめていたらしい。そんな私に気づいた彼が微笑みかけてくれたことで、自覚する。
目の前のカクテルグラスに、とくとくっと薄っすら黄色味がかった液体が、ゆっくりと注がれていく。
「どうぞ、アイ・オープナーです」
低い声と共に、カクテルグラスが押し出される。
そして、カウンターに無造作に置かれた、そのゴツゴツした手が視界に入ったときー。
―…触れたい。
直感的に、そう思ってしまったのだ。
「あ…、ありがとうございます」
生まれて初めて経験する感情だったと思う。
自分には真剣に交際している恋人がいる。この人はたまたま入っただけのバーのマスター。名前も知らない。
自分をけん制するように、当たり前すぎる情報を頭の中でぐるぐる巡らせていたというのに…、こんなにシンプル過ぎる、本能的な欲求に、すべての思考がシャットアウトされる。
「どうしました?」
「…いや、あ…。お名前、お伺いしてもいいですか?」
「塁(るい)っていいます」
「塁さん…。私は、真衣っていいます」
なぜ名前を聞いたのか、なぜ名乗ったのか、わからない。けれど、彼…塁のそのまっすぐな瞳から目を離すことはできなかったし、塁もまた、私から視線を逸らすことはなかった。
―あ、これ。ダメなやつかもしれない…。
何がダメなのかすらよくわからないのに、なぜかそんなことを思った。そして、まだまだ全然目を逸らすことができない。久々のアルコールのせいなのか、体がじんわり温まっていく。
「真衣さん、…綺麗なお名前ですね。すごく似合ってます」
「いや、そんな…」
塁の低い声に、さらに吸い寄せられそうになった、その時。テーブルに画面を表にして置いていたスマホに、直人からのLINEの新着メッセージが届いた。
<直人:今日はごめん。土曜会える?>
ーこんなタイミングで…。
なぜだかガッカリしたような気分を感じていると、こちらを覗き込むような表情をした塁が、言った。
「彼氏さん?」
そして私は、あろうことか…こんな風に答えてしまったのだ。
「違います、彼氏なんていません」
記憶にある限り、これは、私の人生で初めての嘘だ。自分から発せられた言葉を聞きながら、それに気づいて、カクテルを飲み干した。
喉が熱い。
自分の中の、女の嫌な部分が目覚めてしまった感覚がした。
自分の放った言葉が信じられずドギマギしていると、塁は大きな目を細めて微笑む。
「なら、よかった」
「…え?」
その言葉の意味が分からず首をかしげると、塁はおもむろにグラスを拭き始めながら、話題を変える。
「知っています?花言葉みたいに、カクテルにもカクテル言葉っていうのがあるんですよ」
「…?へえ、そうなんですね。じゃあ、このカクテルにも意味があるんですか?」
私がそう聞いても、塁は意味ありげに微笑むだけだった。その捉えどころのなさが、胸の奥の柔らかい部分をどうしようもなく掻き乱すような気がした。
塁からの返事が待ちきれなくなった私は、とりとめのない話題を提供する。
「塁さん、このお店は毎日やっているんですか?」
「ん~基本はね。まあ、気まぐれで休んだりしますけど」
「他にもお仕事されているんですか?」
「いや、この店だけ。だから全然、金ないんですよ、俺」
「…また来てもいいですか?」
「真衣さんがきてくれるなら、貸し切りにしますよ」
途切れ途切れに続く会話が、不思議と心地いい。
今日は木曜日。明日も仕事。”堅物”の私は、平日は絶対に日をまたぐ前に寝ることを習慣としている。
けれど、その夜家に帰った時は、時計の針は深夜2時を回っていた。
早く寝なくちゃと思いながら、慣れないお酒を4杯も飲んでしまった私は、何度も寝返りをうつばかりだった。
しばらくして眠ることを諦めた私は、真っ暗な布団の中でスマホを開き、LINEのトーク画面をタップした。
ブルーライトが不健康に私を照らす。それでも私は、一番上の新着メッセージをいつまでも見返し続けた。
<Rui:また来てくださいね。待っています。>
寝付けない理由をお酒のせいにしていた、このときの私はまだ知らなかった。
本当の恋に落ちたとき、人はどこまでも愚かになるということを…。
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▶Next:3月21日 日曜更新予定
塁に一目惚れしてしまったと自覚する真衣。それに直人が勘づきはじめ…。
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この記事へのコメント
こわーい。
カクテル言葉は
「運命の出逢い」
🤣