ガクゼンとしたまま座り込んでいる美桜に向かって、雅矢は言った。
「ただし、あなたは一度は変わりたいと決意した。だから僕に依頼をしたんです。過去のしがらみと、いらないものと決別し、きれいな部屋で新しい人生を歩み出したい。そんな気持ちで、勇気をふりしぼってくれた。そうですよね」
美桜は、視線を落とし、雅矢の言葉を聞く。その視界に入るものすべてが、不快の塊だった。
脱ぎっぱなしの服。散乱した写真。投げ出されたバッグ。
どれもいつかの宝物だったはずなのに、今やその全てが、美桜の心にずっしりとのしかかる、タチの悪いガラクタと化していた。
―どうして、こんな風になってしまったんだろう。
うつむく美桜の傍らに、いつの間にか雅矢がひざまずいていた。
「一歩踏み出そうとしたあなたと、散らかった部屋で自暴自棄に過ごすあなた。これからの人生、どちらの姿で生きたいですか?」
「それはもちろん…。生まれ変わりたいと思って、雅矢さんに依頼をしました」
「物を捨てるのに“もったいない”は禁物ですが、振り絞った勇気を無駄にするのは、もったいないですよ」
雅矢は、穏やかながらにきっぱりとした口調で言うと、美桜の手元にあるスマホを拾った。
「美桜さん、これはあなたの明日に必要ですか?」
「スマホですか?…必要です」
「じゃあ、これは?」
そう言いながら雅矢が拾い上げたのは、蓋が開いたまま転がったリングケースだ。
雅矢の手によって、リングケースが開けられる。そして、まるで封印するかのように箱の中に閉じ込められていたダイヤのリングが、美桜の目の前に現れた。
久々に目にしたダイヤの輝きが、美桜の記憶をこじ開ける。
蘇る、あのプロポーズの日。人生で一番幸せな瞬間は、まるで崩れ落ちるように、指の間からすり抜けていった。
「もう一度、聞きます。この指輪、あなたの明日に必要ですか?」
必要だった。大切だった。宝物だった。でも…。
たった数ヶ月前まで幸せの象徴だったエンゲージリングは、投げ出したその日からずっと、無造作に床に転がっていた。
美桜は、ゆっくりと首を横に振る。そして、答えた。
「必要ではありません」
それはもう、ただの負の遺産。キラキラと輝く大粒のダイヤが、あの日と同じ輝きを放っているのが不思議なほどだった。
「わかりました。手放す方法は、部屋が片付いた後に一緒に考えましょう。ただ、カテゴリーとしては“捨てるもの”に分類します」
ブシュロンのケースに入れられた、プラチナと大粒のダイヤの指輪。それにどんな意味があったのか、何も聞かない雅矢にも分かっているのだろう。雅矢は事務的な口調とは裏腹に、リングケースの蓋をそっと優しく閉じると、丁寧な手つきで用意していたクリアケースの中に入れた。
”捨てるもの”にカテゴライズされた指輪は、途端にその存在感を失っていく。奇妙な快感を覚えた美桜は、雅矢の目を見て言った。
「なんだか、一瞬で心が軽くなりました。その指輪、見ての通り婚約指輪です。御察しの通り破談になってしまって…そのショックで、この部屋の惨状です」
「辛いお気持ちはお察しします。ただ、手放すのは辛い作業じゃありませんよ。片付けが終わった後は、幸せになるだけですから」
雅矢の言葉は、すんなりと心に響いた。少し心が軽くなった美桜は、本音を吐露する。
「バカみたいですけど、未練があったんだと思います。…復縁できるかもしれないって。それも、捨てられない原因でした」
そう言いながら美桜の手は自然と、周りを埋め尽くしていたものを”捨てるボックス”に入れはじめていた。プレゼントで貰ったポーチや、お揃いで持っていたサングラス。数ヶ月もの間、触れることすらできなかったものたち。その1つ1つにさよならを告げる作業が、雅矢に導かれるかのように始まっていた。
「雅矢さん、ものを捨てるとき、“ありがとう”って物に伝えるんでしたっけ?私これでも、少しはお片づけの本を読んだんですよ」
美桜の問いかけに、雅矢はいたずらな微笑みで答えた。
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