「それに関しては、僕はどちらでも。ものを手放す理由はどんなときも、“役目を終えたから”だと思っています。なので、 “ありがとう”でも、“ばかやろう”でも、お好きなようにお別れを告げていただければ」
美桜はその言葉を聞いてクスクスと笑い、「ばかやろう」とふざけて言いながら、デートのときにいつもつけていた香水を手に取った。
「最後にこの香水、ひと吹きしていいですか?」
美桜の問いかけに、雅矢は「もちろん、どうぞ」と答えた。
ノズルをプッシュしてふわりと広がった香りに、幸せだった日々も、最後の泥沼だったころも、全ての記憶が一気に呼び起こされる。
思えば、婚約破棄の物語はこの香水から始まったのだ。
「…婚約者は、会社の後輩に取られたんです。婚約中から関係が始まったみたいで、結局、向こうの方に本気になられちゃいました。当時の私はそうとも知らずに、幸せの絶頂だと思い込んでいたし、後輩のこともかわいがっていて…。馬鹿みたいですよね」
―美桜さんっていつも良い匂いですよね。なんの香水使っているんですか?
―クロエのオードパルファムよ。
仲の良かった会社の後輩・愛美と交わした、他愛もないやりとりが蘇る。
「自分の香水の香りって、人が使っていてもわからないですよね。ましてやその香りが恋人から漂ってきたって、変には思わないじゃないですか…」
「なるほど。香りで浮気がバレないように、同じ香水を使った…と」
独り言のように呟く美桜に雅矢がそう返したかと思うと、すぐに慌てて取り繕う。
「…すみません。踏み込んだことを」
クールな印象の雅矢が動揺した様子を見せたのがおかしくて、美桜は思わずクスッと笑う。
ー最初はすごく冷たい人なのかと思ったけど…。もしかして、そんなことないのかな?
意外な一面が見られて、なんだか得をしたような気分だった。
「もう良いんです。過ぎた話ですから。むしろ誰にも言えずに抱え込んできたので、少し話を聞いてもらいたいくらいです」
「消化したい思いを言葉にするのは、ものを手放すためにも大切な作業ですよ。仕事ですから、お付き合いします」
そう言う雅矢の顔は、また美しい彫刻のような表情に戻っている。
美桜は、「はい」と答えると、手に持っていたクロエの香水を思い切り良く、捨てた。
◆
雅矢の<お片付けメソッド>は、どこかカウンセリングのような雰囲気を持っている。
「これは、あなたの明日に必要ですか?」
拾った1つ1つの物を手に取り、美桜に問いかける。
何百個、何千個の散らばったもの、1つ1つと向き合わせてくれる。雅矢に物を手渡され、静かで穏やかな口調でそう聞かれるだけで、なぜか素直に自分の心と向き合えるのだ。
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