ーああ…。この生活、幸せすぎでしょ…。
忙しいはずの平日の朝にも関わらず、奈月は窓からの景色を眺めながら、コーヒーを味わっていた。
引越し前からわかってはいたものの、タワマンの設備やサービスというものは、実に便利にできている。
24時間笑顔で出迎えてくれるコンシェルジュは、クリーニングや宅配便など大抵のことは代行してくれて、共働きの強い味方だ。
マンション内にジムがあるおかげで平日でも気軽に運動できるし、高層階には貸切できるパーティースペースやゲストルームがあり、高級感溢れる洗練されたインテリアには、思わずうっとりしてしまう。
各階に設置されたゴミ置場も、奈月のお気に入りポイントだ。今までは、出勤途中にゴミの日だったことを思い出しては悔しい思いをすることもあったが、ここでは気兼ねなくいつでも捨てられる。毎日回収に来てくれるので、臭いもなく常に清潔である。
引越し前には、通勤時間のエレベーターの混雑が大変などと聞き不安を感じていたけれど、どうやら気にするほどではなさそうだ。というのも、このマンションにある5つのエレベーターは階別に分けられていて、3機は高層階専用だ。実際の待ち時間は、今のところほとんどない。
さらに、奈月は引っ越してから職場がぐんと近くなり、以前より30分も通勤時間が短縮された。引越し祝いに貰ったティファニーのマグカップを手に、このマンションを購入して本当に良かったと心底思うのだった。
「おはようございます!ほら愛菜ちゃん、お菓子をくださったお姉さんだよ。」
8時少し前。家を出た奈月に、隣の部屋の真瀬さん親子が声をかけてくる。
品の良いネイビーのワンピースに身を包んだ40代半ばの母親の横で、某有名幼稚園の制服を着た娘・愛菜ちゃんがはにかんでいた。
おはようございます、と奈月が返すと、愛菜ちゃんはきちんとお辞儀をする。この子に限らず、このマンションで出会う子供は揃って行儀がよく、まさに”お子様”という呼び方にふさわしい。
そのとき、真瀬さんが奈月に向かっておもむろに尋ねた。
「…そういえば、あの後お会いできたの?室井さんには。」
「それが、まだなんです。なかなかご挨拶できずで…。お忙しい方なんですね。」
室井とは、奈月や真瀬さん親子と同フロアに住んでいる人物だ。引越し当日から挨拶のため何度も玄関先まで足を運んでいるのだが、タイミングが合わず、未だに挨拶ができていない。
「まあね、室井さんはお独りでいらっしゃるから。…でも、変わった方だからあまり関わらない方がいいわよ。ほら、愛菜ちゃん、エレベーターが来たわよ。」
到着したエレベーターには、先客が乗っていた。
マスクとサングラスにキャップまで被っており、顔はほどんど分からない。だが、見るからに上質な服を身につけた中年男性で、顔を隠しているにも関わらず、おしゃれでスマートな雰囲気を漂わせていた。
ーこのエレベーターって、さっき最上階に停まってたよね。もしかしてこの人、一番上の住民?
タワマンならではの想像にワクワクする奈月を乗せて、エレベーターは高速で地上に到着した。開ボタンを押す奈月の横を、愛菜ちゃんと真瀬さん、そして謎の男性が通り過ぎる。
その瞬間、懐かしくもどこか切ない香りが、フワッと奈月の鼻孔をくすぐった。
ーあれ…。この香りって…。
ふと、嫌な予感が頭をよぎったが、すぐに打ち消し、慌ててエレベーターを飛び出して会社に向かった。
この記事へのコメント
最初はマンション内カーストの話かと思ったけど違うっぽい。