カメラマンの何気ない一言が胸に刺さった時、「はいオッケーです!セットチェンジしますので、レオさんと秋川さんはお着替えをお願いします!」という声が響いた。
飲み物を断り、早足でバスルームに向かって歩き出した僕を、レオさん、と呼び止める声がした。
振り向くと、秋川光希が近づいてくる。
―23歳だったか、な。
ハイヒールを履いているとはいえ、183cmある僕とほぼ視線が変わらないということは、170cmは超えているのだろう。ロングタイトのワンピースが腰の位置の高さを強調している。
その抜群のスタイルと濃いめのオリエンタルなメイクのせいか、年齢の割に随分と貫禄がある。確か10代まで海外で育った帰国子女だった筈だ。
「私ね、今回誰と対談したい?って聞かれたとき、真っ先にレオさんの名前を挙げたんです。だから今日はすごく楽しくて。
実際お会いしてみたら…その声が最高にセクシーなのはもちろんですけど、本当にカッコよくて素敵で…あ!この前出版された本も読ませていただきました」
彼女のチャームポイントの一つとも言われているぽってりとした唇から発せられる、あからさまな好意に悪い気はしないが。
「秋川さんみたいに若い方にも本を読んでもらえて光栄です。でも、ゆっくりお話しするのは後にして…お着替え、お待たせするといけませんから」
「Oops! Sorry!ごめんなさい、私、また興奮しちゃって…」
帰国子女は、興奮すると日本語と英語を混ぜて喋る人が多い。それは僕が教えてもらったテクニックのひとつでもある。…別人になりきると決めた時に。
もうすっかり自分の癖になったそのテクニック。それを学んだときのことを今思い出したのは、目の前の、本物の帰国子女のせいだけではないと分かっている。
『消したんでしょ?』
得体の知れないあの電話の声。あの不快な機械音が…。
「時計も、つけ替えてください」
衣装を持ってバスルームに入ろうとした僕を呼び止めたのは、マネージャーの相原妙子(あいはら・たえこ)。手渡されたのは、僕がアンバサダーになっているスイスの高級時計ブランドの新作だった。
「わかった」
おそらく次の撮影の時に、この時計を写り込ませることが事務所の利益につながると踏んだのだろう。
必要最低限の言葉しか発さない寡黙さがたまに傷だが、彼女は優秀で信頼できる。そんな相原が僕の専属マネージャーとなり、現場についてくるようになったのは、つい2カ月前のことだ。
それまで、僕に常に付き添っていたのは、事務所の社長でもあった、茜さんだった。けれど、もう…。
不意にチラついた、“消えた”人の顔を振り払い、バスルームに入る。
後ろ手に鍵をかけると、自然と大きなため息が出た。そんな自分をごまかすように手早く次の衣装に着替えて、時計をつけ替える。そして最後の身だしなみを整えるために、意を決して振り向いた。
鏡の方を。
「…っ」
―またか。
吐き気に襲われ、僕は洗面台に顔を伏せる。
最近、鏡で自分の顔を見ると、吐き気がこみ上げるようになっていた。
この記事へのコメント