有意義なお金の使い方。その認識がすれ違う
紗枝が仕事を切り上げタクシーに乗り込んだ時には、すでに時刻は24時を回っていた。
麻布十番に借りているマンションまでは徒歩でも帰ることができるが、ただでさえ多忙な毎日だ。「時間を買う」という意味でタクシーを利用するのは、有意義なお金の使い方だろう。
走り始めて5分もせずにマンションに到着すると、自宅のドアをなるべく音を立てないようにそっと開ける。
―きっともう寝てるよね。起こさないように静かに入ろう…。
だが予想に反し、奥のキッチンから「おかえり」と朗らかな声が出迎えた。声の主は、つきあって3年で先月同棲を始めたばかりの彼氏・慎吾だ。
「もしかして待っててくれたの?先に寝ててよかったのに」
「うん、たまにはゆっくり“実業家さん”の顔が見たくてね。熱いほうじ茶淹れたところだけど、紗枝ちゃんも飲む?」
慎吾は時折、紗枝のことを“実業家さん”と呼ぶ。サン=テグジュペリの「星の王子様」に登場する星の数をひたすら数え続ける仕事に追われる実業家に、日々数字に追われる紗枝をなぞらえているのだ。
ひとつ年上で大手電機メーカーに勤める慎吾との出会いは、3年前に通っていた朝活の読書会だった。
のんびりした雰囲気の慎吾の第一印象は「男っぽさに欠ける人」。正直なところ、はじめは恋愛対象として目に入っていなかった。しかし、「人生で最高の1冊」という読書会のテーマで、偶然にも同じ「星の王子様」を持ってきたのだ。
「三十路の男が児童文学を持ってくるのもどうかなと思ったんですけど、同志が居てよかった」
「大人になってからの方がこの本の良さが分かりますよね。『大切なものは目にみえない』。大好きな言葉です」
そう意気投合してから2人が恋人同士になるのに時間はかからなかった。
はっきりと聞いたことはないが、おそらく慎吾の年収は紗枝の3分の2程度だろう。もしかしたら、もっと少ないかもしれない。
しかし紗枝にとって慎吾の優しく詩的な性格は、高収入であること以上に魅力的だ。
スペックに捉われることなく、ただ心のままに愛した人。そんな慎吾と一緒にいる時だけは、心の底からリラックスできるような気がしている。
慎吾の淹れてくれた熱いほうじ茶を受け取ると、紗枝は同棲を機に購入したばかりのアルフレックスの名品・エーソファに深々と身を預ける。
60万円以上するソファの購入に慎吾は乗り気ではなかったが、「どうせ買うならいい物を」と紗枝が自腹を切ったのだ。家具や食器、キッチンのスポンジに至るまですべて厳選して買い揃えたこの部屋は、ごくシンプルな58平米の1LDKでありながら一流ホテルのように居心地が良い。
「あぁ、美味しい〜」
ほうじ茶をすすり心の声が漏れ出た紗枝に、慎吾が答える。
「あまりにも寒いから、暖まるもの飲もうと思って淹れたんだ」
「慎吾って本当に寒がりだよね」
紗枝はそう言いながらおもむろにスマホを手に取り、通販サイトにアクセスする。検索バーに「モコモコ 靴下 メンズ」と入力すると、画面にズラリと防寒用の靴下が陳列された。
「部屋の中でもこういうの履いてあったかくした方がいいよ。慎吾、どれにする?」
スマホの画面をぐいぐいと見せる紗枝に、慎吾はわざとらしくため息をついた。
「俺はいいよ、もったいないから…」
「えぇ〜、たかだか800円くらいだよ?」
「金額の問題じゃなくてさ、必要ないものはいらないって言ってるの」
「800円で快適な生活が手に入るなら“買い”でしょ。ホラ、これなんて可愛いよ?」
紗枝が食い下がると、慎吾はまいった、といった様子で少し笑う。
「まったく。お金を数えるだけじゃなくてしっかり使うのが、紗枝ちゃんと“実業家”の大いに違うところだね。…あれ?」
スマホを握る紗枝の手元を見て、ふと慎吾の顔色が曇った。
「紗枝ちゃん…そんな指輪持ってたっけ?」
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