「しっかりつかまっててね!」
11月の夜風は、頬を切るように冷たい。
猛スピードで移り替わる景色の中、紗綾は考えていた。
なぜ私は、10分ほど前に出会った中年女性のバイクに2人乗りして、首都高を爆走しているのだろう、と–
−10分前−
ひと通り紗綾の話を聞き終わると、留美子さんは急に弾かれたように顔を上げた。
「あなた、家はどこ?」
「勝どきですけど」
「いま免許証持ってる?印鑑は?」
「一応、両方持ってます」
紗綾はぎっしりと荷物が詰められ膨らんだバッグに目をやった。何かのときに必要になりそうのものは全て持ち歩くようにしている。
「あなたは離婚したいの?」
「嫌です。絶対に嫌!離婚するくらいなら…」
紗綾は考えた。離婚するくらいなら、何だろう。
続く言葉が出てこない。
「分かったわ。…タカハシ」
「はい」
「いまは何曜の何時何分?」
「水曜の18時54分です」
じゃあ間に合う、留美子さんはそうつぶやくと、いきなり紗綾の手を掴んだ。
「急いで!今から中央区役所に行くから」
◆
離婚を止めろ!
19時を数分回った頃に中央区役所に到着した留美子さんは、「本日の受付は終了しました」の札をまさに置こうとしていた区民生活課の職員を指差し、よく通る声で叫んだ。
「ちょっと待ったあーっ!」
突然の怒号に驚いている職員の肩をがっしり掴むと、今にも泣き出しそうな顔で訴える。
「かわいい姪の夫がね、悪い女に騙されて、勝手に離婚されそうなのよ…ひどいでしょう」
かわいい姪、とは紗綾のことだろうか。
「姪はいま妊娠してる。ねえあなた、真面目に税金払ってる善良な区民の未来がかかってるの。受付時間ぐらい融通するのが正義ってもんじゃない?そうよね!?」
こうして泣き落とし、というか嘘八百の半ば脅しのような形で留美子さんが手に入れてきた紙切れには、「離婚届不受理申出書」とあった。
「これは一体?」
「勝手に離婚届という卑怯なカードに打ち勝てる防御魔法よ。これさえ先に出しておけば、あなたが望む限り法的に2人は夫婦でいられる。ほら早く書いて」
留美子さんの話によると、離婚届は夫婦のどちらかが勝手に出しても簡単に受理されてしまうのだという。
そしていちど受理されたら最後、いくら片方に意志がなかったと主張しても、訴訟を起こして長く争うことになる、と–
「なんで知ってるんですか?こんなこと」
「昔、あったのよ。色々とね」
留美子さんはちょっと寂しげに微笑んだ。
◆
幸い、夫の祐也はまだ離婚届を提出していなかった。
「…それでは、こちらで受理いたします。もし離婚届が提出された場合は紗綾さんに通知が行きますので」
19時17分。届出は職員に無事手渡され、紗綾は「知らないうちに離婚される」という最悪のシナリオは避けることができたのだ。
しかし、このとき紗綾はまだ気づいていなかった。
本当に最悪なことは、これから起きるということに–
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