結婚さえすれば、なんとかなると思ってた
「タカハシさんって…ご結婚、されてるんですか?」
客が1人もいない店に入り30分を過ぎた頃。
重苦しい沈黙に耐えかね、紗綾は口を開いた。
突然変なことを聞く女だと思われただろうか。
でも仕方がない。いまの紗綾は、男を見れば気にせずにはいられないのだ。結婚しているのか、いないのか。
そして男にとって結婚というものが、どれほどの意味と重みを持つものなのか。
「僕はですね」
しかしタカハシの答えはそのどちらでもなかった。
「あなたがなぜそんなこと聞くのか知りたいです」
「え?」
「オーナーに教わりまして。女性に何か尋ねられた時は“なぜそんなことを聞くんですか”が模範解答だと」
–なるほど。確かにこの店、ちょっと面白いかも
紗綾は、ポツリポツリと初対面の男に身の上を語り始めていた。
「ずっと思ってたんです。結婚さえすれば、私の悩みは解決すると…」
夫は姿を消した。離婚届を持って
野上紗綾といいます。30歳です。
仕事は、青山にある外資系のジュエリーブランドでPRをしてます。結婚したら辞めるつもりだったんですが、夫が辞めなくていいよって言うから続けてます。
夫は野上祐也と言いまして、4歳上でコンサル会社に勤めています。28の時に付き合い初めて、半年後にプロポーズされました。
あの…私、恥ずかしいんですけど悩みがありまして。
男の人と2年以上続いたことがないんです。
必ず向こうから「付き合おう」って言われるのに「別れよう」って言われるのも向こうから。それすらなくて音信不通になることもあります。
原因は、分かりません。
見た目も気をつかってるし、雑誌とかWEBの記事で「彼女にしたい女」「妻にしたい女」の特徴、全部備えるようにしているのに…
だから。結婚した直後から不安でたまらなくて。
この人とも2年続かなかったらどうしようって。
夫の好みの料理とか、インテリアとか本や映画も覚えて。会話が弾むようにしました。
あ、今日のこの服もなんですけど。夫が「ミランダ・カーっていいよね」って言ってまして。
…確かに、彼女にはなれないですけど、せめて服とか雰囲気は合わせられないかなと思って。
一生懸命、理想の妻でいられるように生きてきました。私に落ち度はないと思います。
実は今日が、2人の結婚一周年記念日のはずでした。
でも…夫が、いきなりいなくなってしまったんです。
記入済みの離婚届を持って–
◆
「記入済みの離婚届?」
紗綾が話している間、全く表情を変えないタカハシだったが、一応話はちゃんと聞いていたようだ。
「新婚の頃、夫が言ってたんです。夫婦がマンネリにならないためには記入済みの離婚届を持っておくといい。失うかもしれないという思いが二人をより結びつけるって」
「そんな話を信じたと」
「はい。言われてみればそうなのかな?って」
「じゃあそれを持って行かれたということは」
「はい。私…おそらく、もう…」
「離婚されてるかもしれないわね」
紗綾は心臓が止まるかと思うほど、驚いた。
振り向くと、ヘルメットを被り革のジャケットを着た長身の女が紗綾のすぐ後ろに立っている。
「い、いつの間に?」
「いまの間に」
その女がヘルメットを脱ぐと、ゴージャスに巻かれた長い髪がバサッと肩の上に広がった。
40代くらいだろうか、その年代にしては顔が小さく足が長い。ネコ科の動物を思わせる野生的な吊り目に、赤い唇。よく見ると額にはカギ裂きのような傷跡がある。
もしかしてこの人が–
「はじめましてお嬢さん。オーナーの留美子です」
女は子どものように歯を見せると、ニカッと笑った。
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