「ママ、ぐっすり寝てたから起こさなかったよー♡ピアノのお教室、終わったらLINEするから、むかえにきてね!ママとデートしたいから♡♡♡」
12歳になった一人娘の琴(こと)からの置き手紙。
丸くて可愛らしい文字に、聡美は思わず微笑む。あまり体が丈夫ではない母を気遣い、琴は優しい子に育ってくれた。有難いけれど、年齢よりも随分と大人びている娘を思うと、申し訳なくなってしまう。
―眩しい。
紅茶を淹れるためのお湯を沸かしながら、聡美は目を細める。空調がきいているというのに暑いと感じるほどの日が差し込む、この明るすぎるリビングが、聡美は好きではなかった。
広尾にある低層マンションの、最上階。元々2世帯で設計されていたものを、利一が両方買取り、自ら1フロアにデザインし直したものだ。
「聡美ちゃんへの結婚プレゼント」
6年前、そう誇らしげに笑った利一の顔が、今ではもう幻だったのではないかとさえ思う。ここ数年は笑顔どころか、業務連絡以外の会話も無いのだから。
「わたしは利一のこと結構好きだけど、ママが離婚したいならしてもいいよ」
軽い口調で、琴はいつもそう言う。
琴が利一と呼び捨てにするのは、彼が実の父親ではないことも大きい。琴は聡美の連れ子で、利一は初婚だが、聡美は再婚だった。
―そういえば、あの人からLINEが来てた気がする。
利一からの『業務連絡』を確認するために携帯を開こうとした時、来客を知らせるベルが鳴り、インターフォンのモニターにコンシェルジュの顔が映った。
「運転手の鈴木様がいらっしゃいましたが、お通ししますか?」
聡美は手に持っていた携帯の、利一からのLINEを開いた。そこには新しい運転手が今日訪ねてくることと、自分が約束の時間に少し遅れそうだから、リビングで待たせておいて欲しいと書いてあった。
「10分後に上がって頂いてもよろしいですか?」
寝起きのままの格好だった聡美は、着替えるためにそう言った。するときっちり10分後に、今度は玄関のベルが鳴り、身支度を整えた聡美はドアを開けた。
「運転手の鈴木と申します。ご主人だけではなく、ご家族の運転も担当すると聞いておりますので、奥様、どうぞ宜しくお願い致します」
―美しいお辞儀ね。
そう思いながら、聡美も挨拶をして招き入れる。
「主人はもうすぐ参りますので…」
リビングでお待ちください、と言おうとした聡美の心臓が、ドクンっと大きく音を立てた。
それは、彼が聡美の隣を通りすぎた後に感じた香りのせいだった。
「…その、香水…何で…」
思わずそう呟いてしまった聡美に、鈴木と名乗った運転手が申し訳なさそうな顔になる。
「申し訳ございません、やはり不快だったでしょうか?勿論、普段は一切香りをつけませんが、今日家を出る直前に、ルームフレグランスを倒してしまって…」
恐縮し謝る運転手の言葉は、もう聡美の耳には届いていなかった。
それは…聡美にとって、忘れられない香り。まだ聡美の人生が、情熱と愛に溢れて、鮮やかに色付いていたあの頃の香りだった。
今は、もういない
誰より愛していた男の、残り香。
動悸が激しく打ち続け、呼吸が乱れる。目の中が真っ赤に染まり…聡美は、鈴木の腕の中に倒れこんだ。
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