東京のアッパー層を知り尽くし、その秘密を握る男がいる。
その男とは…大企業の重役でも、財界の重鎮でもなく、彼らの一番近くにいる『お抱え運転手』である。
時に日本を動かす密談さえ行われる「黒塗りの高級車」は、ただの「移動手段」ではない。それゆえ、上流階級のパーティではいつも、こんな会話が交わされる。
「いい運転手を知らないか?」
一見、自らの意思などなく雇い主に望まれるまま、ただ黙々と目的地へ向かっているように見える運転手が。
もしも…雇い主とその家族の運命を動かし、人生を狂わせるために近づいているのだとしたら?
これは、上流階級の光と闇を知り尽くし支配する、得体の知れない運転手の物語。
ようこそ…黒塗りの扉の、その奥の…闇の世界へ。
「あれ?これ、あの人の車じゃね?ベントレーで、このナンバー。うっわ本物カッケー」
「ナンバー、マジでトリプルセブンなんだね!ツイッターにあがってたやつ!ヤバーイ、写メ写メ!あ、動画かな?」
「じゃああの人がこの辺にいるってこと?噂のモデルとデートかな?うわ、会いてー!」
港区・西麻布。
外苑西通りから一本渋谷側に入った、細い道路脇に停められている黒いベントレーの前で、若者たちが大騒ぎを始めた。
ここは西麻布と表参道の抜け道になっており、一方通行の割には交通量が多い。人気のレストランや看板のない大人の社交場が多数存在していることもあり、有名人もよくこの周辺を利用する。
後部座席にスモークが貼られた黒塗りの高級車が停まっていることも日常茶飯事だが、その秘密めいた車の前で騒ぎ立てる人は珍しい。
それはこの街…特にこの界隈には、暗黙の了解があるからだ。
『黒塗りの扉の主は、詮索するべからず』
この街に暮らし、この街で遊び慣れた大人たちは、黒塗りの車から誰が降りてきて、誰が乗り込むのか、例え気になったとしても素知らぬフリをする。だから。
―騒ぎ立てるのはよそ者と決まっている。
騒ぎの元になっている黒いベントレーの運転席で、主人の戻りを待っていた運転手は、そんなことを考えていた。
ミラー越しに、若者たちの様子を伺う。明るい髪色の男が2人に、露出度の高い服装の女が1人。年齢は辛うじて成人している、くらいか。
その格好と、歩いてきた方向から考えると、近くのクラブで遊んできたのだろう。そして終電に乗るつもりで店を出て、この抜け道を通り、表参道の駅まで歩いていく途中、といったところか。
防弾ガラスをはめた窓ガラスを通してさえ、車内に聞こえてくる彼らのはしゃぎ声は、酔いが回っているようで、まだまだ終わりそうにない。
運転手は、腕時計を見た。
噂の主…雇い主である、環利一(たまき・としかず)が、会員制の鮨屋から出てくるまで、恐らくあと15分ほど。しかも彼らの読み通り、噂の人気モデルと一緒だ。
既婚者である環だが、その女性は妻ではない。
運転手は電話の短縮ボタンを押す。2コールの後、能天気な環の声がした。
「もっしもーし。鈴木ちゃん、どしたの?もうすぐ出るよん」