そして鈴木を雇って1年がたった今、田宮は本当に、次期総理大臣の地位まで上り詰めた。
―まさか、あの言葉が現実になろうとは。
実は田宮は、紹介されてすぐに鈴木を雇ったわけではない。
何せ、田宮のような黒塗りの車の持ち主には秘密が多い。特に田宮の場合、車の中で日本を動かすような決断を下すこともある。つまり国家の重要機密を運転手が聞く可能性もあるのだ。
だから、守秘義務の書類にサインをさせるとはいえ、運転手の身辺調査は入念に行う必要がある。紹介者から、履歴は問題はないと言われていたが、田宮は独自に鈴木の過去を調べさせた。
その結果、鈴木の人生は履歴書に書かれた通りだったし、過去の雇い主からの評価も軒並み高かった。
それでも信頼するにはまだ早い、と田宮は、まずは1ヶ月の仮採用として鈴木明を雇った。そして雇ってすぐに起こった、あの一件。鮮やかに暴漢をさばいたことを気に入り、彼を正式に雇い入れたのだ。
そしてそれ以来、田宮の政治人生の勢いが増した。
次期総理の有力候補と言われていた数人のライバルが、次々と戦線を離脱。ある者は不倫をすっぱ抜かれ、ある者は金銭トラブルが発覚。
そして最有力候補と言われた大臣が、突然病を発症し自ら政治家を引退すると、次の総理の候補は、田宮しかいなくなった。
ライバルが1人ずつ自滅する、という都合の良い出来事が、偶然起こるわけはない。事実、田宮が何らかの手を下して、ライバル達を消し去ったのではないか、という噂が政界では出回っている。
しかし田宮は何もしていない。とすれば…
『彼を雇えば、あなたの障害は排除され、夢が叶いますよ。いわば福の神と言ったところでしょうか』
田宮が紹介者の言葉を思い出した時、車が静かに麹町の自宅の車寄せに滑り込み、田宮は思考を止めた。鈴木がただの運転手であろうとなかろうと、今日でこの男は去るのだから。
鈴木が後部座席のドアを開ける。この男と会うことはもう二度と無いだろう。確信めいた予感を抱えて、田宮は車を降りると振り返った。
「鈴木、これまでご苦労だった」
「お世話になりました」
鈴木の口調は「また明日お迎えに参ります」という時と何ら変わらず、淡々と、微笑みもしない。
田宮は苦笑いを返すと背中を向け、自分から鈴木を奪った、あの忌々しい環利一の顔を思い出した。
―あの若造にとっても…鈴木は福の神となるのだろうか。
◆
―あの人、今日も帰ってきてないのね。
日曜日の朝10時過ぎ。
何日も家を空けることが当たり前の夫・環利一の不在を特に気にすることもなく、妻・聡美(さとみ)は、キッチンのテーブルに置かれたピンクの便箋を手に取った。