「突然クビ宣告でもしてみれば、少しはお前が動じるかと期待したんだが…。1年も一緒にいたと言うのに、お前はまるでロボットのように感情をみせなかったからな」
鈴木は何も答えなかったが、田宮は構わず喋り続ける。
「クビ、は嘘だ。賭けに負けてな。あの若造に…ポーカーでやられた。その商品が、お前だった。どこで噂を聞いて来たのか、あの若造がお前を欲しいと…」
信号が青に変わり、黙ったままの鈴木が車を発進させた。田宮の恰幅の良い体で座席が沈み、特注の革張りのシートが軋む。
忌々しい気持ちは消えないが、今日で最後なら、と田宮はずっと聞きたかったことを鈴木に尋ねた。
「なあ、鈴木。鈴木明は本名じゃなかろう。最後に本当の名を教えてくれ。俺は絶対に他言はせん」
「おかしなことをおっしゃいますね。私にそれ以外の名前はございませんが」
―やはりそう言う、か。
予測していたとはいえ迷いのない即答に、もはや笑みさえ浮かんでくる。
ー恐らく…名も経歴も作りものだろう。
田宮はそう疑い続けてきたが、それを暴く術は最後までなかった。この男は常に完璧で…恐ろしい程に隙を見せない。
田宮郷太郎、62歳。魑魅魍魎がはびこる政治の世界で、人の闇も裏の顔も知り尽くし懐柔してきた男でさえ、この運転手にはいつも煙にまかれ、驚かされてきた。
鈴木をまだ雇ったばかりの頃。車に乗りこもうとしていた田宮が、ナイフを持った男に襲われたことがある。その時、車のドアを開けて田宮を待っていた鈴木が、瞬時に動いた。
田宮を後部座席に押し込むと、押し込んだ左手の反動を使い、流れるような動作で暴漢が持っていたナイフを掴んだ。そして暴漢のみぞおちに小さな打撃を加えると、背後からその首を絞め、取り押さえたのだ。
襲われたのが財務省前だったため、すぐに警備が飛んできて暴漢の身柄は引き渡され事なきを得たのだが、その落ち着き払った鈴木の動きには、SPも田宮も驚いた。
―判断の速さと、肝の座り具合…玄人だな。
考えるより先に体が動く。命が危うい状況でも冷静。それらは訓練をしなければ手に入れられない能力だ。しかも『相当な』訓練を、だ。
―気に入った。この男は、絶対に「ただの運転手」ではない。得体は知れないが、面白い。
◆
鈴木を田宮に紹介してくれたのは、鈴木の熱狂的な支援者の、ある財界人だった。
運転手が退職することになったから、良い人物がいたら紹介して欲しい、と田宮が周囲に相談していると、彼が鈴木を推薦してきたのだ。
「運転手としても一流ですが…彼を雇えば、あなたの障害は排除され、夢が叶いますよ。いわば福の神になる、と言ったところでしょうか」
予言めいたおかしな紹介の仕方だとは思ったが、田宮は驚きはしなかった。
政治の世界では占いや風水といったものが驚くほど重宝されている。大事な決断をする時には必ずお抱え占い師の意見に従う、という政治家もいる。
「それは、何かの占いで…私とその運転手の相性がとてもいい、ということですかな?」
田宮が笑いながらそう聞くと、紹介者は、まあそのようなものです、と言った後、冗談めいた調子でこう続けた。
「彼を雇えば、あなたはきっと、総理大臣になれます」
黒塗りの扉
東京のアッパー層を知り尽くし、その秘密を握る男がいる。
その男とは…大企業の重役でも、財界の重鎮でもなく、彼らの一番近くにいる『お抱え運転手』である。
一見、自らの意思などなく雇い主に望まれるまま、ただ黙々と目的地へ向かっているように見える運転手が。
もしも…雇い主とその家族の運命を動かし、人生を狂わせるために近づいているのだとしたら?
これは、上流階級の光と闇を知り尽くし支配する、得体の知れない運転手の物語。
ようこそ…黒塗りの扉の、その奥の…闇の世界へ。