2018.08.02
煮沸 Vol.1
◆記憶②:1986年 某日 AM1:00
「恵一、起きてるか?」
「…うん、起きてる」
「いくぞ」
兄と、決して足音を立てぬように廊下を歩く。
通り過ぎる親の寝室に、気配はない。
1階へ降りるときの階段の軋む音は、足をおろす場所に、先に手をあてることで防げることを兄に教わった。
カエルのような四つん這いの姿勢で2人が1階へと進む。
真っ暗なリビングのテレビの電源をつける。ここが最も難所である。電源をつけると静電気の派手な音が響き渡るのだ。
ーバチン!
…5秒。
…10秒。
親の気配はない。
無音で『ドラゴンクエスト』をする兄の横に、私がいる。
我が家ではテレビゲームは1日30分まで。そんな短い時間では、クラスのみんなに後れをとってしまう。
ーゴホン!
「ごめんなさい」
睨む兄に私は謝る。喘息だった私の咳を、兄は何よりも嫌うのだ。
咳がでないように息を殺して、兄と毒の沼地を進む。苦しい。咳をしたい。勇者のヒットポイントもどんどん減っていく。
自分でコントローラーに触りたいとは思わなかった。大好きな兄の隣で冒険を見守っていられれば嬉しかった。
もうじき、朝だ。
まだ、親の気配はない。
家族構成
製薬会社で研究員を務める父と、小学校教諭の母親の元、私は生まれた。
2人は学生運動で結ばれたそうで、本棚には、ハードカバーの煤けた岩波書店の「マルクス資本論」が飾られていたことを覚えている。
無口で厳格な父と、教育熱心な母親。上に3つ歳の離れた兄が1人。よくあるパターンだ。
(後に知ったが、私の上にはもう1人兄弟がいるはずだったが、流産してしまったそうだ)
母は当時としては珍しく、出産後も仕事を続けていたため、共働き夫婦であった。
世田谷区の鎌田にある木造の一軒家に暮らし、生活に苦しさはなかったように思う。いわゆる中流家庭だ。
◆記憶③:1981年 某日 日本橋三越
中流家庭といえば、思い出したことがある。
たまに日本橋三越で買い物をしたあとに、中にあるレストランでお子様ランチを頼んでもらえるのだが、食が細かった私は、全部を食べきることができなかった。
ーせっかく頼んでくれた親を、がっかりさせたくない。
たくさん食べたように見せるために、チキンライスをスプーンで力いっぱい押し付けて小さくし、皿の隅に追いやる。
「恵ちゃんも、来るたびに食べる量が増えるね」
横から兄が冷たい口調で言う。親は、何も言わない。
私は焦っていた。次回来た時、これ以上はチキンライスを小さく押し固めることができないことがわかっていたから。
「お母さん、おいしいね!」
口いっぱいにほおばりながら、私は笑顔を見せる。
ーどうか、次はレストランに来ませんように。お母さんがお子様ランチを頼みませんように。
【煮沸】の記事一覧
おすすめ記事
2018.08.09
煮沸 Vol.2
開けてはならぬ記憶の扉が、いま動く。この男の記憶は、すべて都合良く歪曲された幻なのか?
- PR
2025.03.31
結婚1年目から、激務のせいでギスギス…。崩壊寸前のパワーカップルを救ったアイテムとは?
2016.05.01
独身貴族
東京カレンダー的「独身貴族」 6つの定義。あなたはいくつ当てはまる?
2019.04.17
男運ナシ子
男運ナシ子:「美人なのに、男運ゼロ…」。20代を残念男に捧げた32歳女が、最後の婚活に挑むワケ
- PR
2025.03.31
えっ、あの“ミャクミャク”の部屋に泊まれる!?どっぷり万博に浸れる、いまだけのホテルステイとは…
2022.11.29
ハッピーエンドの行く先は
だらしない体の夫を、男として見れない…。嫌気が差した妻が、ベッドの中でこっそりしていたコトは
- PR
2025.02.12
【豪華プレゼントが当たる】「所有欲が掻き立てられます…」人気セレブ夫婦が魅了された“マセラティ”の車とは
2018.09.29
黒塗りの扉
時代の寵児と呼ばれた男の、知られざる過去。子持ちバツ1女性を妻にするに至った、強烈なる欲望
- PR
2025.03.27
7種類ものフレーバーが楽しめる! この春、台湾生まれのフルーツビールが話題!
- PR
2025.03.28
ほろ酔い美女の正体とは!?17LIVEの人気ライバー4人を、港区のバーにお連れしてみたら…
東京カレンダーショッピング
ロングヒット記事
2025.03.19
運命なんて、今さら
初めて彼のマンションを訪れた28歳女。しかし、滞在10分で、突然「帰りたい」と思った理由
2025.03.22
男と女の答えあわせ【Q】
「豊洲に住んでいる」と33歳男が言った途端に、デート相手の女が戸惑ったワケ
2025.03.23
男と女の答えあわせ【A】
「年収800万くらいでもいいかな…」相手に求める条件を妥協したつもりの30歳女の大誤算
2025.03.17
1LDKの彼方
「何もないって言われたけど…」彼氏が他の女と連絡を取っていたことが発覚。30歳女は思わず…
2025.03.20
TOUGH COOKIES
「幸せそうな彼女がなぜ?」SNSで悪質コメントの犯人を突き止めたら、意外な人で…
この記事へのコメント