2018.07.15
有馬紅子 Vol.1許してほしいと書かれているのに、その文字が浮かれ、踊っているように見えるのはなぜだろう。
『45歳のおじさんが何を言ってるの、って紅は笑うかな。でも、僕はこの恋に真剣なんだ。だから、家を出て行きます。』
いつまでも少年のように無邪気な貴秋さん。人を疑うことを全く知らず、自分の感情にも素直な人。友人達に「お公家さま」とからかわれる程、浮世離れした彼。
ゲーテやニーチェ、シェイクスピア。ヨーロッパの作家たちの恋の詩を暗唱して聞かせてくれるような、ロマンチックで純粋なところが大好きだったけれど。
ー貴秋さん。悪びれないにも、程があるわよ。
蝉の鳴く音が、まるで脳に直接響いているかのように、急に大きく聞こえはじめた。耳障りで顔をしかめると、水滴で文字が滲んで、自分の汗が手紙に落ちたことに気がつく。
滲んだのは、はじめての「恋」という文字だった。
私は、思わず声を上げて笑い出してしまった。人は驚きすぎると、頭が急激に冷えていくものなのだ、とはじめて知った。
「紅子さま…大丈夫ですか?」
私の様子を中からずっと見ていたのだろう。いつの間にか側に戻ってきていた西条さんに声をかけられ、私は我に返った。
「ええ。大丈夫よ」
どうやら、貴秋さんは家出したらしいが、ここで取り乱すわけにはいかない。彼のお相手がどんな女性なのか、彼がどこに行ったのか、確かめなければ。
「西条さん宛てのお手紙には、何て書いてあったの?」
さっき、手紙は2通あったと、西条さんは言った。
「…紅子さまは、ご覧にならない方が良いかと」
「西条。今すぐ手紙を出しなさい」
口調を変えて凄んだ私に観念したかのように、西条さんは自分の胸ポケットから封筒を取り出し、私に差し出す。
封筒の中から手紙を取り出そうとして、自分の手が震えていることに気がついたけれど、西条さんに気づかれないように、私は自分を奮い立たせる。
―私がこんなことに負けるわけ、ない。
私の名前は「紅子(べにこ)」 。
名前の由来は、宝石の女王・深紅のルビー。鮮やかに華やかに輝く子に、と両親がつけてくれた名前。
日本では古来から「紅玉」と呼ばれてきたその石は、富の象徴であっただけではなく、世界中で、戦いに勝つためのお守りにされてきた石でもある、と父が教えてくれた。
「燃えたぎる炎。ルビーは戦士の宝石でもあるんだよ」
紅子には、ただ守られるだけのお姫様になって欲しくはない。父のその思い通りに私は育った。
親に勧められた結婚だったとはいえ、嫌だったら絶対にしていない。貴秋さんを選んだのは私だ。これから先だって、自分の人生は自分で決める。
私にもプライドがあります。両親がつけてくれた「紅子」の名に恥じる生き方はいたしません。
◆
「有馬紅子さん、40歳…ですか。失礼ですがその年齢で、ほぼ職務経験がないとなると、弊社の仕事は、かなりハードになるかと…」
私の履歴書を見ながら渋い顔になった、おそらく私より5歳は若いであろう男性は、そう言って私の顔色を伺うような仕草を見せた。
ヨーロッパに本社を置き、300年近くの歴史を持つ、クリスタルブランド。その広報職としての面接のはずだけれど、おそらくこの目の前の男性にとっては、上司に押し付けられた面倒くさい仕事なのだろう。
私の方から断って欲しい、という気持ちが透けて見えているけれど、あいにく、その気は無い。
父の友人を頼って就職先を探しはじめて、ここのブランドはどうか、と言われた時、是非と返事をした。グラスや花器はもちろん、シャンデリアでさえも、ここの商品を愛用してきた私はいわば、上顧客。
「確かに、わたくしは大学卒業後すぐに結婚しましたから、社会経験は1年しかございません。ですが、御社の製品には幼い頃から触れてまいりましたので、きっとお勤めの皆さんの誰より…詳しくご説明ができますわ」
ゆったりと微笑んで見せると、目の前の男性が引きつった笑顔のまま、上司に相談してご連絡します、と小さな声で言い、退出を促された。
廊下を歩きエレベーターに乗り込むと、携帯を取り出す。無意識にある番号を押そうとしていた自分に気がつき、私は虚しくなった。
―もう、運転手はいないんだった…。
いつまでも抜けないクセに、私は苦笑いしてしまう。2ヶ月前、貴秋さんが家を出たことがきっかけで、私は全てを失った。
寂しさと虚しさに、気持ちがさらわれそうになったけれど、エレベーターのドアが開いたことに救われ、私は顔をあげて歩き出した。
ビルの外に出た瞬間、強い光に目がくらむ。慌ててバッグの中からサングラスを取り出すと、中国語や韓国語が飛び交う表参道を、地下鉄の駅に向かう。
携帯を見ながら歩いている人にぶつかられることが多いことも、この2ヶ月ではじめて知ったけれど、少しずつ慣れてきた。
ひどい状況には違いないけれど、何とか前に進もうとしている自分が、私は誇らしくもあった。
だけど、この時の私は、何もわかっていなかった。
全てを失った、40歳、女。
その市場価値と…人生の再スタートが、とてつもない茨の道になることを。
▶NEXT:7月22日 日曜更新予定
40歳・女・再出発の最初の壁!そして留学先から戻ってきた息子が…。
それで職務経験ほぼなし、とはフリが効いてる。笑
でも全てを失ったの可哀想。
恋に走った旦那はなにも残してくれないの?
【有馬紅子】の記事一覧
2018.12.02
Vol.23
幸せだった日々は、すべて偽りだった?夫に裏切られた妻の、初めての反撃と秘めた決断
2018.12.01
Vol.22
夫婦生活の終わりとともに、全てを失った女の行く末は?明日で最終話!「有馬紅子」総集編
2018.12.01
Vol.21
有馬紅子 番外編:逃げた夫、執拗に追う女、敏腕執事。恐怖の計画の裏にあったそれぞれの思惑
2018.11.25
Vol.20
結婚17年後に暴かれた、夫の秘密。隠し子の存在を、妻に知らせた女の目的とは
2018.11.18
Vol.19
“自分は特別”と錯覚してしまった女の悲劇。一度味わってしまった高揚感に、狂わされた人生
2018.11.11
Vol.18
憎悪、嫉妬、愛情…1人の女を巡って、6人の男女の思惑が交錯する、運命の夜
2018.11.04
Vol.17
弱ったフリして、憧れの人を部屋に連れ込んだ女。2人の男を翻弄する、危険な計画
2018.10.28
Vol.16
「相談に乗っていただけますか?」弱みを見せたフリして近づいてくる女の、暴走が始まる時
2018.10.21
Vol.15
手紙に込めていた秘密が暴かれた時。失望した女が、着々と進める復讐計画
2018.10.14
Vol.14
「すべては仕組まれていた?」妻を捨てて若い女に走った夫の後悔と、膨らむばかりの猜疑心
おすすめ記事
2020.10.12
男と女の怪談~25歳以下閲覧禁止~
男と女の怪談:婚約破棄された29歳女が半狂乱に…。商社の受付嬢が見た、戦慄の来客予告とは
- PR
2025.01.22
海外じゃ当たり前!バーテンダーも思わず微笑むツウなウイスキーカクテルの正体
2023.02.12
New Yorkに憧れて
美容系動画で生計を立てていたが、SNSが炎上し収入が激減!窮地に追い込まれた女は…
2020.12.23
貴女みたいに
「私も一緒にいいですか?」いじめられている新入社員をかばったら…断れないまさかの要望
- PR
2025.01.23
代官山で晴れやかに乾杯!東カレ初の「クラフトビールナイト」の全貌をレポート
- PR
2025.01.24
「温泉、行かない?」タワマン購入後の夫婦には、優雅な暮らしが続く秘密があった!
2017.09.07
寿退社したものの
寿退社したものの:自分の選択を肯定しないと気が済まない、専業主婦の邪魔なプライド
2022.01.26
ゴシップな女ー嫌われ者のカレンが死んだー
ゴシップな女ー嫌われ者のカレンが死んだー:画像加工とブランドに彩られた、SNS女王の哀れな最期
2017.10.08
デートの答えあわせ【A】
「明日、朝早いから帰ります」は真実か?女が2軒目で帰る理由に気づかぬ男:デートの答えあわせ【A】
2016.11.23
フォックス・アンブレラの男
上質な傘を持つ男が放つ、ビニール傘男にはない残り香
東京カレンダーショッピング
『かに物語』:〆まで楽しめる雑炊の素付き!蟹の旨みがたっぷりと溶け出すかに鍋セットミニ
『肉のABCフーズ』:黒トリュフ塩付!牛タン&A5ランク黒毛和牛を使った極上ハンバーグ
『東京京橋おばんざい醸』:肉を引き立てる3種の塩!A5黒毛和牛を使ったローストビーフ
『かに物語』:海老・帆立・蟹!ベシャメルソースに、各種海の幸をトッピングした贅沢グラタン
『UMIKARA』:薄切り・厚切り食べ比べ!特製出し汁で味わう若狭湾真鯛の鯛しゃぶセット
『パンツェロッテリア』:具材ごろごろボリューミー!フレッシュな野菜と肉感満載のフライドピッツァ
『オリベート』:黒トリュフ香る、口当たりクリーミーな究極のティラミス
『ミホ・シェフ・ショコラティエ』:日本を代表するショコラティエ―ルが作る、 ショコラ好きのための濃厚ガトーショコラ
『LOUANGE TOKYO』:アート感溢れるビジュアル!口溶けなめらかな大人の生チョコレートエクレア(6種)
『ル・ボヌール 芦屋』:しっとりサクサク!フリーズドライ苺にホワイトチョコをたっぷりと浸透させた新感覚スイーツ
この記事へのコメント