上なんか見ても疲れるだけ
じゅわ...と口の中に広がるひき肉の旨味とキャベツの甘味に瑞希は目を細めた。
「はぁ...ほんっとうに美味しい。人類は餃子以外のものを食べる必要があるのか立ち止まって考えちゃうぐらい、美味しい」
「大げさだなあ...まあ、美味しいけど」
40代半ばほどの大柄な男が、向かいで呆れながらハイボールを啜る。
土曜の夜、広尾商店街の『タイガー餃子軒』は家族連れから若いカップルまで、思い思いに週末を楽しむ人々で賑わっていた。
ここひと月ほど、瑞希はこの店に通い詰めている。
向かいに座る水野とは、瑞希の上司、吉田の紹介で半年ほど前に知り合った。
紹介と言っても、上司と水野が西麻布『こんぶや』で飲んでいるところに偶然出くわし、そのまま3人でおでんを囲んだのがきっかけだ。
上司曰く、水野は「ヘッジファンド時代に死ぬほど稼いだからもう働かなくて良い」らしく、確かに彼はハワイの別荘と東京の家(複数)を行ったり来たりする以外は、日中もNetflixを見るぐらいしかやることが無いと言う。
「上野さん、ほっぺにラー油飛んでるよ」
「あれっここ?ありがとうございますー」
おしぼりでごしごしと頬を拭く瑞希を見て、水野は苦笑いした。
「年頃の女子が土曜の夜にすっぴんで餃子って、世も末だよなぁ...っていうか流石に毎週来てて飽きない?」
「やっだなぁ水野さん、もはや飽きる飽きないっていう次元にこの餃子は無いんです。
野菜、たんぱく質、炭水化物という、人類が必要とする栄養素を完璧なバランスで内包する、完全栄養食なんですから」
よく分からない論理をご機嫌で打ち放ち、瑞希はそのふっくらと形の良い唇の端をにっこりと引き上げた。
◆
水野とはほぼ週1のペースで飲みに出るが、場所はいつもここ、『タイガー餃子軒』だ。
そもそも瑞希は、外食にあまり興味が無い。
会社で上司に連れ出されるときは、客単価2万円を超えるステーキから鮨、フレンチにイタリアンと全方位好き嫌いなく満喫するが、プライベートで自ら「ここに行きたい」という欲求は無い。
瑞希の収入は、一般的な20代のそれを大きく上回るが、生活は至ってシンプルだ。
趣味と言える趣味も無く、休日はUberEatsで出前を取り、一日中家にこもってNetflixを見て過ごす。
時々気が向いたときに、UberEatsで食べられないおでんや焼き立ての餃子を食べに、ふらりと近所の店に出かける程度だ。
「まるでリタイアした俺と同じじゃないか」と以前水野に笑われたが、実際、そういう行動パターンが一致しなければ瑞希が人と出かけることはほとんど無い。
―やりたいことなんて無い、ただのんびり穏やかに、なるべく苦労しないで人生過ごしたい。
高学歴・高収入・容姿端麗と、誰もが羨むスペックを備えていても尚、彼女は人生にとことん後ろ向きだ。
ふと目線を感じ、顔を上げると水野と目が合った。
その目の奥に何か言いたげな雰囲気を感じたが、瑞希は気付かなかったふりをして手元のビールに視線を落とした。
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淡白にもホドがある!?ゆとり世代の恋愛事情。
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この記事へのコメント
食べたい物を食べ、着たいものを着て、地味ーに遊ぶ。とても共感できる。