2016.08.25
ラール・エ・ラ・マニエール Vol.1
遠慮気味に一口齧ると口の中には濃厚な肉の味が広がった。鴨肉をもっと凝縮したような濃い肉の味がする。深いコクがあり、食感は弾力があるのに適度に柔らかい。引き締まった身に脂肪はほとんどなく、肉の強い味が感じられる。シンプルに塩と胡椒で味付けされたこの料理は、絶妙な焼き加減で食材の味を巧みに引き立てている。
何を食べても味を感じられなかったのが嘘であるかのように、口の中に複雑な味と香りと食感が飛び込んでくる。
「美味しい……。」
思わず言葉が出た。雅樹から別れを切り出されて以来、機能を停止していた神経が久しぶりに、勢いよく動き出すのがわかる。
肉を手掴みで食べるという、ある意味原始的な行為は、人間の本能を刺激するのかもしれない。生きるために、人は食べ続けなければならない。食べることは、生への執着だ。当たり前すぎて忘れてしまっていることを、このソムリエは思い出させてくれた。
蓋をしていた思い出が一気に蘇る。雅樹のこと、雅樹と付き合うまでの、自分のこと……。
美香は今まで、高級なレストランであればあるほどデート相手を失望させないようにと、料理を味わうよりも自分の振る舞いに神経を使っていた。最高の自分を演出しながら、同時に相手の値踏みもしなければならず、料理の味どころではなかった。
だが今思えばあの努力は、
誰のための、何だったのだろうか……。
自分には結局何も残っていない。
美味しいものを美味しく食べること、美しいものを見て感動すること、好きな人を無条件に好きになること……。自分の本能を抑えて、理屈ばかりの窮屈な人生を生きていたことに、美香は気付いた。
鼻の奥がツンとして涙がこぼれそうになるが、それも構わず食べ続け、じっくり咀嚼する。噛むほどに、口の中で味が変化していく。その全てを逃すまいと夢中になって半分を食べ、鼻を啜った後さらに齧りつこうとした。その時、美香は手を止めて「ふふっ」と照れたように笑った。
「なんだか、自分の姿を客観的に考えたら面白くなってきちゃった。30の女が、フレンチを手掴みで食べながら、しかも泣いてるなんて。イタいを通り越して、面白い……。」
近くに立つソムリエに言っているのか、ただの独り言なのか、もう自分でもわかっていない。美香はとにかく食べ続けた。細い骨のまわりの肉は、前歯を使って丁寧にはがしてあっと言う間に、モモ肉を綺麗に完食した。
「実は最近ちょっと落ち込む事があって、何を食べても美味しいと思えなかったんです。でも私はいつも、食事を楽しもうとしていなかったんですね。…あーあ、何も残らないなら、せめてもっと味わっとけばよかった。」
わざと明るく、しかし本当に残念そうに美香は言った。久しぶりに笑って、心に重くのしかかっていたものが、少しだけ軽くなっていくのがわかる。
「ご存じかもしれませんが、やはりお肉というのは骨のまわりが一番美味しいのです。お客様は、料理の一番美味しい所をよくご存じです。ナイフとフォークだけでは味わえない、一番美味しい所をお楽しみいただけたのなら幸いです。」
ソムリエは綺麗に骨だけが残った皿を見て、満足そうに言った。
すぐに立ち直ることはできないし、まだまだ眠れない夜もあるだろう。雅樹の事だってこれから先も許せるとは思えない。だが、美味しい料理を食べたいと思えるようになっただけでも、大きな進歩だ。
「ぜひ一緒に乾杯してください。」
美香はソムリエに感謝の気持ちも込めてそう言った。
「ありがとうございます。ただ、私はアルコールがあまり飲めませんので、一口だけ……。」
「え、あなたソムリエですよね?なのにアルコールがダメなんですか?」
「はい、ほとんど飲めません。」
そう言って彼はニコリと笑う。お酒を飲まないソムリエなんて、聞いたことがない。だが確かに、彼の胸にはソムリエバッジが輝き、銀座の一等地にあるフレンチレストランでソムリエをしている。
「面白いですね。じゃあ、お名前教えていただけますか。」
「吉岡と申します。」
「吉岡さん。ありがとうございます。」
◆
美香は最後のコーヒーまでいただいた後、地上で吉岡から見送りを受けていた。両手に抱えた紙袋を見ながら、明日からはしばらく買い物はしなくていいかなと思えた。
「それじゃあ」と言う前に、ふと気になったことを聞いてみる。
「ちなみに…鳩の手掴みはよく提案されるんですか?」
吉岡は何も言わず口を結んだままニコリと笑い、深く頭を下げた。
もしあなたが今、何かの糸口をお探しなら『ラール・エ・ラ・マニエール』の扉を見つけてください。
8/27(土)〜9/10(土)の期間中、ご来店の2日前までにご予約をいただければ、「ランド産ピジョンとセップ茸のロースト」と共に、ソムリエ・吉岡があなたをお待ちしております。
ラール・エ・ラ・マニエール
03-3562-7955
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