2016.06.16
忘れられない香り Vol.1「佳恵子……ごめん、子供が出来た」
その後のことは、よく覚えていない。記憶に残っているのは、頭が真っ白になったということと彼のむせび泣きに近い声が、電話越しに聞こえてきただけだ。相手は、高校時代の元カノ。妊娠して2か月になろうとしており、時期的にも彼が父親であることは間違いないと言う。
自業自得。電話越しに涙声で話をしている浩二を、冷めてみている自分に気が付いた。馬鹿じゃないの……。こんなとき一番に自分の状況を冷静に考えて、出来るだけ自分が損をしない方法を考えられるのは女の方だと思う。
浩二は、罪悪感に駆られてか、聞いてもいないのに相手の女の子と再会した経緯や、今回の妊娠が発覚した経緯を話してきた。彼をフォローする気も失せ、これまで一緒に過ごしてきた4年の歳月を呪った。一番大事な20代後半を返してほしい。
「そう。教えてくれてありがとう。お幸せに」
そして佳恵子は電話を切った。
こんな話は世の中にありふれた話だ。浮気だけならまだしも、一度は契を交わした夫婦が、家庭を顧みずに己の愛欲を抑えきれずに不倫、最悪の場合には子供が出来てしまうことは聞かない話でもない。
その後、何事もなかったかのように日常を過ごしていた自分の冷静さと、冷め切った気持ちを恐ろしく感じるほどだった。まさか自分の彼氏が、他の女と浮気をした結果、妊娠させてしまうなんて。私にだってプライドはあるから、恥ずかしくて友達に言えない。本当はプライドを、ズタズタに引き裂かれたような思いだった。
恐い物見たさに、Facebookで浩二の相手を検索すると、画面上でそれらしい子が口元でピースをして微笑んでいる。看護師をしている子だという。
冴えない女。男って、結局、前に出すぎない地味で面倒見の良い女が好きなんだろうか。心の中で悪態をついて、自分もこんなに醜いことを考えられるんだと引いた。
◆
なんで今さら、忘れた頃になって思い出すんだろう。あの香りのせいだ。
ボーっとしていると、横で一緒に歩いていた婚約者の涼に声をかけられた。話しかけても反応がなかったからなのか、不思議そうな顔でこちらで見ている。友達との夕食後、彼と待ち合わせをして、家の近くのバーに入った。六本木の外資系金融会社に勤める彼とは、1年前から東麻布の彼のマンションで同棲をしている。
3年前の出来事は、今や過去のことだ。誰からも同情の目なんて向けられなくない。
「ブルガリ マン」の香りが呼び覚ましたやり場のない思いを振り切るように、佳恵子は何事もなかったかのように笑顔を浮かべて、グラスに残ったアマレットジンジャーを飲み干した。
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