「最後のキスは タバコのフレーバーがした ニガくて切ない香り」
宇多田ヒカルも、かの名曲「First Love」でそう語り始める。
嗅覚の記憶というのは、触れたことよりも鮮明に脳が覚えている。街で、かつて好きだった人の香りが鼻をかすめ、後ろを振り返ったことが、誰しも一度はあるだろう。
そんな“忘れられない”思い出を、呼び覚ますのはどんな香りだろうか。洗い立ての髪から香るシャンプー?洗濯物の柔軟剤、夏の波打ち際の潮風の匂い、秋の樹々から香る金木犀?
僅かな香りを嗅ぐことで、追憶の彼方に追いやられていた記憶が走馬灯のように蘇ってくる。彼女たちには「言葉に出来ない」香りにまつわる切ない話があった。
佳恵子(30歳・独身)の場合
“A woman’s heart is a deep ocean of secrets”(女の心は、秘密に満ちた深い海のようなもの)
これは、佳恵子が好きなある映画の台詞だ。
男たちが見ている、女の一面はほんの少しに過ぎない。女は、しなやかに、時にずる賢く過去をオブラートに隠す生き物だ。
佳恵子は今、六本木のIT関連企業に勤めている。新卒で入社した大手化粧品メーカーでは関西の事業所に配属となり、3年目のタイミングで退職。東京に戻った後は、白金高輪にある高層マンションの実家に戻った。
関西では4年間付き合った彼氏がいた。配属後に会社の同期を通じて知り合った、大手商社勤務で同い年の浩二。代々、医師と弁護士の家系という堅気な育ちにも関わらず、二枚目で末っ子気質な性格に好感を持ったのを覚えている。
彼は育ちがいいだけあって、選ぶ香水にも品があった。「ブルガリ マン エクストレーム オードトワレ」は、知的さと上品さを感じさせるホワイト・ウッディ・フレッシュの香りが特徴的。4年も一緒にいればこの香りが体に染みつき、嫌でも忘れられなくなる。
26歳のとき、佳恵子はいまの会社へ転職した。残業時間は増えたが、前職の時よりも給与はプライベートに割けれるほどアップ。それに生まれも育ちも港区の彼女にとって、東京に戻って来られたことは何よりも嬉しかったという。
ただ、心残りは関西に残してきた浩二のことだった。
「結婚の話は一度も出なかったけど、タイミングが合えばいつかは、くらいに構えていたんですよね。関係に白黒つけることなく、そのまま遠距離にしてしまいました」
男の一歩後ろを歩く女を求める浩二にとって、その真逆を行く自分は、そもそも不釣り合いだったと今になって思う。働ける選択肢があるなかで、家庭に収まる自分は違うと考えていた。そんな佳恵子は、浩二にとって理想的な奥さん候補ではなかったはず。
遠距離が始まって暫くすると、ふたりの間には少しずつ溝が生まれてきた。生活はすれ違い、会いたい時に会えないもどかしさが募る。仕事で疲れて帰ってきた夜は、着信があっても折り返すことが億劫に感じていた。
浩二からの連絡が滞ってきたのは、遠距離を始めて半年くらい経った頃だろうか。佳恵子の携わるプロジェクトも軌道に乗り、終電近くまで残業をすることが続くようになっていた。
そんなある日、浩二から一本の電話が入る。そしてこの電話を最後に、佳恵子は浩二と二度と連絡することはなくなり、彼は別の女性と結婚してしまった。
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