帰国日の朝9時。シンガポール最後の食事は、『マックスウェルフードセンター』内にある『真真粥品(チェンチェン・ポリッジ)』というお粥だった。ここも誠さんのおすすめの店で、魚のお粥は粒がほとんど残ってないほどトロトロで絶品。ずっとふたりで食事をしていたせいか、たかだか15分の朝食さえ、ひとりで食べるのが寂しかった。美味しいほど、より寂しい。
誠さんとホテルを出て空港にチェックインするまでの間は、なぜか何を喋ったかよく覚えておらず、あっという間だった。なんとなく、長野の実家から上京するとき、両親が見送ってくれたあの雰囲気と似ていた気がする。
出国ゲートにいよいよ入ろうとするとき、誠さんは最後に言った。
「もし桜が咲いたら、教えてくれるかな? 僕でよければ、お花見をしに日本に行くから」
「うん」
私は笑顔で頷いて、視線が途切れるまで誠さんに手をふった。
東京に着くともう春の陽気で、街ではコートを脱いで歩く人の姿も多く見られた。月曜、気づくと自転車のカゴの中にピンクの花びらが入っていて、どうやら梅の花のようだ。
編集部では真希が「梨花選手、快挙!!」とかけよってきた。
「結婚式はラッフルズホテルかな〜?」
なんてご機嫌。
「いや、まだつき合ってもいないし」
「シンガポールに行く前は、あんなに落ち込んでいる梨花は見たことないってくらいだったから、本当によかった!しかも綺麗になってるよ!」
お世辞かもしれないけれど、ほかの編集部員にも
「梨花さん、何かいいことあったんですか??」
と何人かに声をかけられた。この日は普段あまりつけない、ピンク系のリップを塗っていた。
仕事を早めに切り上げ、久しぶりに美容室に向かう。もうずっとロングでいた髪をボブにするためだ。
「自分にはこれが合うって、こだわり過ぎてたんじゃないの?新しい魅力も発掘しなきゃ」
もう10年以上私の髪を切ってくれている美容師さんが言うとおり、カット後に鏡を見たら新しい自分がそこにいた。軽やかなボブのおかげか、表情も明るく見える。
美容室を出て六本木のけやき坂で
「もしもし、誠さん。いま大丈夫?」
と、私はシンガポールに電話をかけていた。
「梨花さん! もしかしてもう桜咲いたの??」
誠さんは「どうしたの?」とか言わずに、当たり前のように電話に出てくれた。
「ううん、もうちょっと。ただ私いま髪を切ったばかりで、なんとなく電話したくなって」
ずっと、こういう些細な嬉しいことを報告する恋人が欲しかった。LINEじゃなくて電話で。家族みたいに。
「きっと短いのも似合うんだろうな」
「個人的には気に入ってるよ」
「そっか。見に行きたいな」
顔は見えないんだけど、私と同じく誠さんも微笑んでいる気がした。
「あのね、桜は今月末が満開みたい」
「じゃあ、チケットとってもいいかな?」
「もちろん!」
日本酒と、おいなりさんと、お肉料理と、奈良漬とクリームチーズを合わせたおつまみなんかも用意したいな。
ちょっと沈黙があって、誠さんはふと
「梨花さん、元気?」
と聞いてきた。
「うん、すごく元気!」
また誠さんと乾杯できることが嬉しいから。それも桜の木の下で。おちょこを持っていってもいいし、でも紙コップでも十分だ。
上を見あげたら、まだ青い桜の蕾が、ほころぶのを待ちわびるようにたくさん実っていた。
(完)