
崖っぷちアラサー奮闘記:芸能界から捨てられた女の「これが私の生きる道」
昔、サスペンスドラマで共演した、小田慎一郎だった。
今年53歳になった小田は、人柄のよさで知られ後輩の面倒見もよく、ドラマで共演してから涼子も頼りになる先輩と慕っていた。
だから引退を決めたとき、小田にだけは報告し、ほかの業界関係者の連絡先はすべてアドレスから消去した。その小田からの連絡だ。激務を案じて自分からの連絡は控えてきたため、うれしくないはずがない。
「最近なにしてる? 久しぶりに銀座にでも出てこないかい?」
単なる後輩だった自分を思い出し、気遣ってくれる小田に涼子の目は潤んだ。
銀座並木通りにある西洋料理屋『南蛮銀圓亭』に現れた小田は、MACKINTOSHであろうと思われる黒のシンプルなコートに仕立てのよさそうな黒のニット、そしてグレーのフランネルのパンツという、以前と変わらぬシンプルないでたちだった。
下品にならない程度に身体のラインを拾うベージュの膝下丈のワンピースに、同系色の9センチヒールのコーデを選んだ涼子は、自分が場違いな服装をしていないことにほっとひと安心する。
「元気にしてた? 雅ちゃん……じゃないんだっけ、いまは」
「……いまは北岡涼子なんです」
明るく振る舞おうとしているものの、芸能界にいたころのような快活さが失われた涼子を見て、小田は現状を察したのだろう。マテラ酒で香りづけをした、小田自身の好物であるビーフシチューを平らげると言った。
「久しぶりに会ったんだし、今夜はパーッと遊ぼうか!」
銀座並木通りにある老舗のクラブ『銀華』は、ドラマの打ち上げで一度来て以来、名物ママに会いたくてたまに行くと小田は言う。
涼子が初めて行ったこの夜に出迎えてくれたのも、この由紀ママだった。
「あら~、小田さん、お久しぶりじゃないの~」
40代後半とおぼしき由紀ママの見た目にまず、涼子は圧倒された。
クリームがかった控えめな文様の色留袖に、こんもりと高く結い上げられた夜会巻きで一寸の隙もない身なりをしている。
「粋」な女性というのが涼子の第一印象だった。その、完璧なまでの着こなしと、垂れ目の愛嬌ある顔からこぼれる笑顔とのギャップに、同性の涼子まで惹きつけられた。
やや粘度が高くゆったりとした口調で甘えを演出しながらも上品さが損なわれていないのは、銀座を生き抜いてきた女ならではの品格なのかと、涼子は、いままで出会ったことのない人種に胸を衝かれもしたのだった。
「こんなに高い店、そう頻繁には通えないよ」
コートを預け、小田が苦笑混じりに言ってから涼子を紹介しながら席につき、ヘルプの女性たちが小田の両隣を陣取った。杯が重なり夜もふけてきたころ、由紀ママが涼子を見て言った。
「涼子さん、とってもお綺麗ね。左目の下にある泣きぼくろがセクシーだわ。小田さんのお連れということは、芸能関係の方?」
涼子を気遣い、小田が「いや、違うよ」とだけ濁すと、由紀ママがさらに涼子をほめる。
「こんなに華がある方って、そうそういないわ。その、ちょっと寂しそうな笑顔も男性をそそると思うの。スタイルだって抜群だし」
そして、畳みかけるように言葉をつなぐ。
「涼子さんはいま、どんなお仕事をしていらっしゃるの?」
答えかねている涼子を気遣い、小田が助け舟を出す。
「ちょっと休憩中なんだよね?」
肯定とも否定とも取れないような薄い笑みを浮かべる涼子を見据えて、由紀ママが聞いた。
「ねえ、涼子さん。ウチのお店で働いてみる気はない?」
小田が、「由紀ママが自分のお店でスカウトすることもあるんだ」と驚き、由紀ママが「嫌だわ小田さん、わたし、このお店でスカウトするなんて初めてなのよ」と、語らう声を聞きながら、涼子は、「本気で言っているのだろうか」と、由紀ママの誘いを受け止めかねていた。
文/内埜さくら
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