「あーあ、失恋だぁ」
「ごめん。ねえ、本当に家まで送らなくて大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。さすがに、フラれたばっかりの相手に送ってもらうのは気まずいですし」
「ごめんって…」
私をタクシーに乗せると、豪さんは窓の外からそう言って何度も謝った。そうはいっても、深刻さはまるでない。今まで緊張していたのが嘘みたいな、打ち解けた会話だ。
「じゃ、豪さん。おやすみなさい。ねえ、絶対その子のところにもう一回行った方がいいですよ!未練タラタラじゃないですか」
「うん…ありがとう。あ、でも栞ちゃん。これだけは言っておくけど」
「なんですか?」
「夜中でも美味しそうにたくさん食べるところ、すごくいいなと思ってたよ。俺、本当に会社やめちゃうけど、ロスまでラーメン食べに来てね」
「…了解です!」
お互いにずっとずっと手を振りながら、タクシーは走り出した。
そのすぐあとに豪さんもタクシーに乗るのが見えて、そのタクシーが虎ノ門とは全然違う方向に向かって発車するところも見えた。
自宅に到着する頃には、時刻は1時半近くになっていたけれど、リビングでは父と母がまんじりともできない様子でまだコーヒーを飲んでいた。
― ねえ、豪さんの恋を応援できた私は、やっぱりちゃんと恋をしていたと思うの。
そう言う代わりに私は、「ただいま」と小さい声で言った。
そうしてそのまま両親がいるリビングの片隅に座って、小さな子どもみたいにシクシクと泣いた。
◆
― 今頃パパとママは、夜のコーヒーを飲んでるかな。
時刻は22時だ。あの夜のことをすっかり思い出し終えた私は、両親と、コーヒーと、そのお茶請けの深夜のクッキーのことを考える。
率直に、寂しさを感じた。
何もかもがそろっていたあの実家に比べて、この部屋にあるのは最低限の家具と、まだ空いていない段ボール箱と、段ボール箱のゴミだけ。
小さな声で「おーい」と誰かを呼んでみたら、タイミングよくお腹が「クゥ〜」と子犬みたいな音で返事をしたのには笑ってしまった。だけど、小腹が空いてもこの家には、夜食を作ってくれる人はいない。
「私、パパとママにどれだけ大切にされてるか分かるし、感謝してる。でも、そろそろ一人前の大人として、ちゃんと自立してみたいの」
あの夜をキッカケに本気でそう両親に頼んで、一人暮らしを許可してもらったのだ。自分で選んだことなのだから、今はこの空腹すら、ほんの少し誇らしく感じる。
「よし」
ふと思い立った私は、出したばかりのDeuxieme Classeの春物コートを羽織ると、玄関を飛び出した。お腹が空いたのだ。
蕎麦猪口もお鍋もすっかり綺麗になって、水切りカゴで次の出番を待ち構えていた。だけど、使えばまた洗い物をしなければならないのは面倒だったし、何か新しいことがしたかった。
22時。門限はもう無い。
向かったのは、目黒駅と家の間にあるのを見て気になっていた焼肉屋さんだった。
『焼肉ぽんが 目黒本店』──23:30までオープンしているというのも、ちゃんとチェックしてある。
― レイカとマミだって、一人焼肉なんてしたことないって言ってたもんね!
1秒でも早く大人になりたくて、お店に向かって夜の目黒を早歩きで進んでいく。
「ひとりです!」
自信満々に立てた人差し指は、たった一本でもまっすぐにピンと伸びた。
― んんー!美味しいー!絶対このお店、美味しいと思ったんだよね。
炙りユッケにウニのせ肉軍艦。新鮮レバーに赤身、イチボ、ミスジ、トモ三角、上ロースが大集合した希少部位5種盛り。どれもこれも黒毛和牛らしいしっかりしたお肉の旨みと脂の甘さが感じられる。
なかでも「たたみネギタン塩」は、たっぷりと載せられたネギの量にまず驚かされ、次いでその食感と味わいのバランスにも驚かされ、自分のお店探しのアンテナの正しさを改めて確信するのだった。
予想していなかったのは、2つだ。
1つは、店内席に入れなかったこと。
もともと人気店で混雑していることは覚悟していたけれど、今の時季はお花見に訪れる人たちで一層混み合っていて、テラス席に座ることになった。
道に面したテラス席にひとりというのは若干心細かったけれど、いざお肉が来てしまえば、美味しさに没頭していて気にならない。その上、今まで感じたことのない春の夜風はとても気持ちよくて、嬉しい誤算と言ってもいいかもしれなかった。
だけど、もう1つは…。
と考え始めた、その時だった。つっかけてきたrepettoのバレエシューズの足先に、くすぐったさを感じる。
「…?」
桜の花びらでも飛んできたのだろうか?と思いながら机の下を覗き込んだ私は、思わず「きゃっ」と驚きの声を上げた。
私のつま先をくすぐっているものの正体は──小さなポメラニアンだったのだ。
「ええ〜、どっから来たの?」
人懐っこく私の膝に飛び乗ったポメラニアンを撫でていると、向こうの席から慌てた様子で駆け寄ってくる人がいた。
ちょうど私と同じくらいの歳だろうか?ハラハラした表情を浮かべ、私に向かって申し訳なさそうにお辞儀をする。
カジュアルなストリートファッションが似合う男性で、どこかで会ったことがある気がするけれど思い出せない。
「すみません!ちょっと目を離した隙に…。おい、クッキー。降りろって」
「クッキー…。この子、クッキーちゃんっていうんですか?」
「あ、はい。すごい、全然降りない。あんまり人に懐かないんだけどな…」
「そうなの?わぁ、嬉しいです」
クッキーを連れ戻すために彼は、味付けなしで注文したお肉で誘惑する。このお店はペット同伴可能で、ワンちゃん用にもお肉を提供してくれるのだそうだ。
だけどクッキーはそんな美味しいお肉の誘惑にも負けず、ちっとも私のそばから離れようとしない。
「クッキー、本当にお前さぁ…。ごめんなさい。こいつまだまだ子どもで、甘えん坊なんです」
彼は困った様子で頭を抱えるものの、その表情にはクッキーに対する深い愛情が滲み出てしまっているのだった。
彼の、クッキーを見つめる愛おしげな顔を見ながら、私はさっきまで考えていたことに立ち戻る。
今夜予想外だった、もう一つのこと。それは──「少し寂しい」ということだった。
「美味しい!」と思っても、その感想を共有する人がいないのは、寂しい。
ウニのせ肉軍艦も、たたみネギタン塩もきっと、誰かと食べたらもっと美味しい。
でも、「1人の方がゆっくり味わえる」と思えたら…それが“大人になった時”なのだろうか。
― 犬でも飼ってみようか。ポメラニアンとか憧れるな。でも、一人暮らしで犬を飼うなんて無責任だよね…。やっぱりまずは、自分ひとりでしっかりしないと。
そんなことをちょうど考えていたその時に、嘘みたいに本当に私のもとにポメラニアンがやってきたのだ。
気がつけば次の瞬間にはもう、言葉は口をついて出てしまっていた。
「あの…おひとりだったら、よかったらご一緒にどうですか?」
そう声をかけることが、今夜は最初から決まっていたように感じられた。
「え?いや、ひとりではあるんですけど…あ、こいつとふたりか」
「あ、そうですよね。おふたりだったら、ぜひ」
「本当にいいんですか?じゃあぜひ…。おいクッキー、よかったなぁ〜!」
そう言って喜ぶ彼を見て、突然答えが分かった。
― あ、どこかで会ったことがあるんじゃない。この人、パパに似てるんだ。
顔の作りではない。ハラハラと心配する顔も、よかったな、と喜ぶ顔も、どこか父に似ていた。そしてその要因は、深い深い愛情にあるということが、唐突に理解できたのだ。
「そっか。私のことが大切だから、一人暮らしも応援してくれたんだ…」
小さく呟いた私に、クッキーと彼は揃って小首を傾げる。
その様子に思わず吹き出してしまいながらも、私は彼に名前を尋ねた。
一人焼肉は失敗に終わったけれど…もしかしたらそれでいいのかもしれない、と思いながら。
▶前回:バレンタインデーが憂鬱。渡したい人もいない、30歳独身女の本音
▶1話目はこちら:細い女性がタイプの彼氏のため、20時以降は何も食べない女。そのルールを破った理由
▶Next:3月2日 月曜更新予定
新しい道を歩き出した栞。そして、豪と市子もまた、新しい道へと進むことに…!







この記事へのコメント
栞の初恋は敗れたけれど豪の幸せを応援するの素晴らしい! 豪がロスに行く事はいつ知ったんだろう?