レイカとマミと、引っ越しを記念してざる蕎麦を食べたのは、夕方の17時半ごろだっただろうか。
今は21時を過ぎているから、ようやく食器を洗う気力が湧いてくるまで、3時間近くかかってしまったことになる。
近くの東急ストアで買ったグローブは信じられないほどゴムくさいし、開封したばかりのスポンジはものすごく固い。
「これは先が思いやられるなぁ」
実家では、洗い物はいつも母か時々来るお手伝いさんのイトウさんがやってくれていたし、食洗機だってあった。ぎこちない手つきと、なぜだかびしゃびしゃになってしまうエプロンには、我ながら呆れるしかない。
けれど、「これからは、全部自分でやるんだ」という強い決意だけが、ここ1ヶ月半の私をがむしゃらに突き動かしていた。
そう。4月を目前にして、季節はすでに春を迎えていた。
豪さんと焼き鳥デートをしたあの夜から、1ヶ月半の月日が経っている。
そして私はその1ヶ月半の間、一瞬たりともあの夜の出来事を忘れたことはない。
◆
あの夜のことはいつだって、まるで昨日のことのようにはっきりと思い出すことができる。
2月の麻布十番。午前1時過ぎの凍りつきそうな路地裏。
そして、白い息と共に交わした、私と豪さんの間だけの秘密の会話。
「あの、豪さん。私…まだ帰りたくないです。豪さんの部屋、連れてってもらえませんか…!」
酔いと深夜の勢いに任せて吐いた取り返しのつかない私の言葉に、豪さんは少し沈黙したあとに言ったのだ。
「…いやいや。さすがに、ご両親に怒られちゃうでしょう。家まで送るから、いい子はちゃんとおうちに帰りなさい」
どんな答えでも、受け入れる覚悟ができていたつもりだった。
だからこそ、自分らしくない方法だと違和感を感じていても、恋する気持ちを全力でぶつけたのだ。
だけど──。
豪さんのその返事を聞いた瞬間、頭の中が沸騰するように熱くなった。
恥ずかしさと、悲しさと、それから惨めさで…気がつけば私は豪さんに、みっともなく言い返してしまうのだった。
「私、子どもじゃないです。バカにしないでください!」
目の前の豪さんは、呆気に取られてしまっている。だけど、私の言葉は止まらなかった。
酔いと深夜の勢いと、それから私がずっと溜め込んできた、コンプレックスのせいだ。
「豪さんが好きなんです。私、いままで一度も恋愛したことがなくて。ずっと素敵な恋に憧れていて…。それでやっと、豪さんのことを好きになったんです。
だから、正解なんて分からなかったけど、一生懸命アプローチしたんです。デートに行きたい!って気持ちだってはっきり伝えたし。それなのに豪さんは、豪さんは、いっつも美味しいお鮨に連れていってくれるだけでぇ〜」
いつのまにか、涙が流れていた。これでは本当に子どもだ。自分で「子どもじゃないです」と啖呵を切っておきながらこんな醜態を晒してしまい、恥ずかしさで消えてしまいたかった。
「す…すみません。忘れてください」
ぐちゃぐちゃな感情と寒さのあまり、涙だけでなく鼻水まで垂れてきそうになってきてしまった私は、バッグから近沢のハンカチを取り出して慌てて顔を隠すと、タクシーを探して逃げ帰ろうとする。
だけど豪さんは、そんな私の肩に手をかけると──ぐっと引き寄せて、優しく抱きしめてくれたのだ。
「栞ちゃん、ごめんね」
「何にごめんねなんですか」
「栞ちゃんがそんなに想ってくれてることに、気づけなかった」
豪さんの腕は、温かいけれど力は強くなく、いつでも抜けられる優しさだ。
心地よさと、突然抱き寄せられた切なさと、胸のドキドキ。
色々な感情が押し寄せてくる中で、だけど一番大きいのは「えっ!?」という驚きだった。
「そんな…私はっきり、デートしてくださいとまで言ったのに」
「いや…あの時はだいぶお酒飲んでたから、悪酔いだったのかなって。もしかしたらとは思ったけど、そのあとは食事に行っても栞ちゃんあんまり飲まなかったし。
美味しいお鮨は一緒に食べたいけど、大人数は苦手ってことかと…」
以降のデートでお酒を控えていたことが、まさか裏目に出るなんて…。一瞬気が遠くなりそうになったけれど、豪さんの言葉はそれだけでは終わらなかった。
「それに…」
「…はい」
「失礼だったらごめん。栞ちゃんの相手は多分、俺じゃないと思うんだ。多分、本当は俺のことそんなに好きじゃないと思うよ」
「え…?」
今度こそ本当に、「バカにしないでください!」と叫びたい気持ちだった。
こんなに豪さんのことが好きなのに。豪さんの他には誰もいないのに。
だけど、私が向こう水な反論を始める前に、豪さんは苦しそうに言葉を続ける。
「本当に好きだったらさ、相手の幸せを尊重したり、夢を本気で応援できると思う。
わかんないけど、俺の思う“好き”って言うのは…そういうことなんだ」
「好きな人の…夢…?」
豪さんの真意が分からず、私は酔いのせいでイマイチ回らない頭を必死でめぐらせる。
そして、あることに思い至るのだった。いつかのお鮨デートで豪さんが言っていたこと…。
『俺、実はさ…ラーメン屋さんやりたいんだよね。会社辞めちゃおっかな、って思ってたり』
それに対して、私はなんて返しただろうか?
もし豪さんがラーメン屋さんになったら?職場の人であれば父も母も交際を認めてくれるかもしれないけれど、会社を辞めてしまったら?土日もきっとないだろうし、夜も出かけたりなんてできない?デートもあんまりできなくなる?
そんな打算ばかりが湧いてきて───必死に、その夢を否定してしまったっけ。
「あ…」
ショックのあまり私は、温かな腕をそっと振り解き、豪さんの顔を見上げる。
だけど見上げた豪さんの顔は───私のことを、全く見ていない。
麻布十番の路地の向こう…いや、もっとずっと向こうのどこか遠くを見つめているのだった。
「豪さん」
「ん?」
「豪さんにはもう、そういう人がいるんですね」
「え…」
最初から、わかっていたような気もする。
初めて豪さんと深夜のお鮨を食べた夜。
「食べるのって、楽しいのになぁ…。女の子って、やっぱり太ることとか気にする子多いよね」
タクシーの中でそう呟いた豪さんは、すごく寂しそうで、それでいて、すごく優しい目をしていた。
太るのを気にする女の子。私の知らないその人が、豪さんの中にはずっといたのだろう。
だって、私と一緒に深夜のグルメを楽しむ時は───豪さんはいつだって、優しい目をしていたから。







この記事へのコメント
栞の初恋は敗れたけれど豪の幸せを応援するの素晴らしい! 豪がロスに行く事はいつ知ったんだろう?