梨沙が作ってくれた朝食を食べ終えると、僕は玄関へと向かった。
「じゃあ、行ってくるよ。さっきも言った通り、今夜は白川と飲んでくるから」
「わかったぁ、いってらっしゃーい。絶対飲みすぎちゃダメよ!」
見送りはない。
自分の喋りたいことを喋るだけ喋ってしまって気が済んだのだろう。遠くキッチンの方から声が聞こえて、それで朝の夫婦の時間は終わった。
今の梨沙は、ペットの2匹のトイプードル・ピノとポコの世話をする時間か、もしくは体型をキープするためのピラティスの時間に入ってしまったのだ。
― 息子は2人とも早朝から部活でいないし、朝は夫婦でゆっくり過ごせる時間なのにな。
少しだけ寂しく思いながら自宅を出ると、マンションのエレベーターを降りたあたりでスマホが震える。見ると、梨沙からのメッセージだ。
― おっ?
一体どんな内容かと思い、いそいそとLINEを開く。けれどそこにあったのは、やっぱりこんな内容のメッセージだ。
<梨沙:ヒロユキ用のプロテインがない!渋谷に行くなら大きいドラッグストアで帰りに買ってきてもらえる?>
僕はため息をつきながら、味気ない気持ちで「了解」のスタンプを送るのだった。
梨沙とは、2年付き合って結婚し15年になる、つまりトータル17年過ごしている。
出会いはごくごく平凡なものだ。新卒で就職した、大手インターネット関連サービス会社の同期同士。
何年かは一緒に飲み会をするだけの仲間でしかなかったけれど、ある時、梨沙が当時の彼氏と別れて涙を流す姿を目にして「守ってあげたい」と感じた。
そこからアタックして、何度かデートして、告白して、付き合って…トントン拍子に結婚して、あっという間に15年。
子どもは息子が2人で、上が13歳、下が11歳。それから、トイプードルが2匹。
15年の間に、外資コンサルに転職してシニアマネージャーになった。
渋谷寄りの広尾、國學院大學近くの低層マンションを自宅として構えた。
梨沙も子育てが少し落ち着いて、ペット用ジュエリーだかなんだかの販売を始めて充実しているらしい。
つい先日、世間一般の45歳らしく健康診断でひっかかり、肝機能障害の疑いで少し前に検査入院するというちょっとした事件はあったけれども、僕の人生はおおむね順風満帆と言えるだろう。
だけど、たったひとつ。たったひとつだけ、満たされない部分がある。
それは──僕が、妻に片想いしているということだ。
片想い、と言うと、少し語弊があるかもしれない。
まがいなりにも15年も夫婦をしているのだから、妻に愛されていた時だってないわけではないはずだ。
会話だって十分すぎるほどにある。毎朝美味しい朝食を作ってくれるし、疎まれているわけでもない。寝室だって一緒だ。
だけど、でもとにかく…僕の方は、今でも妻を愛している。
女性として、愛している。
あんなに明るくて、一緒にいて楽しい人は他にいない。見た目だって、45歳の割には相当にイケてる方だと思う。
だけど、45歳にもなってこんな気持ちを妻に抱いているのは、白川に言わせればおかしいことらしい。
その実感はあった。妻の方は、もうとっくに僕に対してそんな気持ちは失っているだろう。
なぜなら、梨沙が僕に話す内容は、9割が息子たちの話だからだ。そして残りの1割は、犬の話。
あっちのほうは、なんと10年もご無沙汰だ。レスどころかデートすらもしていない。子どもと犬の話しかしない妻が、そんなことの相手をしてくれるわけがない。
職場は、渋谷だ。
入院以来、健康のために家から会社までは歩くようにしている。
渋谷川を渡って出勤する途中、渋谷ストリームの店先には大きな笹の葉と七夕飾りが掲げてあった。
― そうか、七夕か。織姫と彦星は、こんな悩みとは無縁なんだろうなぁ…。
45歳同士。もう、男と女には戻れないんだろうか?昔みたいには、戻れないんだろうか?
笹の葉の前で立ち尽くす僕に、生暖かいビル風が吹き付ける。じっとりとした汗が、Tシャツを僕の背中に貼り付けた。
◆
お酒を口にするのは、約1ヶ月ぶりになるだろうか。
梨沙に今朝やめとけと言われたものの、やっぱり今日だけはお目こぼしいただきたい。
付き合わないわけにはいかないのだ。
なにせ今夜は隣の席で、青学初等部からの幼馴染・白川が、マッカランのボトルを抱き込むようにしてクダを巻いているのだから。
「何が不満だったんだよぉ…」
20時半。賑わうセルリアンタワーの『ベロビスト』で白川が渋谷の夜景を前に頭を抱えている理由は──家族を失ってしまったからだ。
この記事へのコメント
白川のオッサン、まだ言ってるのかいww
「あの女。贅沢な暮らしもさせてやってたし精一杯うまくやってきたじゃないか」
うるせー
そうだよね、七夕の夜とは言え...しかも奥さん「プロテインと間違えちゃった?」って😂 まぁ笹はきっとそんなに嬉しくなかったと思うから今度ちゃんとした花束買ってあげて♡