ちょっとした火遊びのつもりだった女性関係が、実は筒抜けだったらしい。奥さんはまだ小学生のお嬢さんを連れてある日突然、離婚届を置いて実家に帰ってしまったのだという。
「娘のサマースクールの準備してるのかと思ってたんだよ、まさかそれが家出の支度だなんて…」
「辛いな」
「十分すぎる生活費も渡してたし、記念日だって祝ってたんだぞ?義両親の誕生日まで祝う男なんて、そうそういないだろ」
「まあな」
白川の愚痴に、僕はウイスキーを舐めながら当たり障りのない相槌を打ち続ける。僕の入院や、さらには妻に対する些細な悩みなどの出番は一切なさそうだ。
ヒロユキ用のプロテインはもう買ってある。今夜はあとは、こうして小さく頷きつづければいいだけだ。
けれど、次に白川が言った言葉には、僕はうまい返事を思いつくことができなかった。
「あなたからは愛が感じられない〜とか言って、あの女。贅沢な暮らしもさせてやってたし、精一杯うまくやってきたじゃないか。
それが大人の愛情表現だろ?15年も夫婦を続けていれば、いつまでも男女ではいられないだろ!気持ち悪い」
「まあ、な…」
― 気持ち悪い、か…。梨沙も僕のこと、そう思ってるんだろうか。
もう、45歳。
こんなオジサンが愛だのなんだのというのは、普通に考えれば気持ち悪いものなのだろう。しかも、相手だって同い年だ。
今もまだ男と女でいたいだなんて、どう考えてもおかしいだろう。
それになにより白川は、これだけ奥さんを大切にしていても離婚を切り出されたのだ。
子どもの話しか話題がなくても、一緒にいてくれるだけでよしとしなくてはいけない。
そう、自分に言い聞かせようとした時だった。
「あの…」
ふと、白川の向こうに座っているカウンター席の一人客が、声をかけてきたのだ。
「あ、すみませんうるさくて」
『ベロビスト』名物のピアノの生演奏の、邪魔になってしまったのかもしれない。そう思った僕は、咄嗟に白川の代わりに謝罪した。
けれど、その男性客──50代くらいだろうか?さっぱりとした品の良い紳士は、思いがけない言葉を残して行ったのだ。
「気持ち悪くなんて、ないですよ」
「…え?」
「ごめんなさいね、聞こえちゃって。
でも、好きだ、愛してるって言葉にされるのは、いくつになっても嬉しいものですよ」
紳士は「失礼」と会釈すると、あっけに取られる僕を置いてさっさと席を後にしてしまった。
よく見れば、片手には花束を下げている。僕と白川は呆然としながら、その堂々とした背中を見送るしかなかった。
◆
前後不覚になった白川をタクシーに押し込んでしまうと、僕の脳裏に浮かび上がってきたのはやはり、先ほどの紳士の後ろ姿だった。
― 花束、似合ってたな。貰ったのかな。
と、そこまで考えて、やはり考え直す。
― いや、あげに行ったんだ。誰かに。
なぜだか不思議とそう確信した僕は、速足でセルリアンタワーを後にする。渋谷川の手前に、確か遅くまでやっている花屋があったはずだ。
目論見通り店じまい直前の花屋に漕ぎ着けた僕が手に入れられたのは、少し萎れた七夕の売れ残りの、葉がクルクルと巻いてしまった笹の葉だった。
目当てのものは手に入れられなかったものの、渋谷から自宅へと向かう僕の足取りは軽かった。
あの紳士が、花束をだれかにプレゼントしに行くところであってほしい。
なぜって、信じられないほどにカッコよかったからだ。
45歳。今さら「愛してる」と言葉に出すなんて、気持ち悪い。ダサいに決まっている。
そんな諦めにも似た気持ち──いや、年齢の“呪い”を解く力が、彼の背中にはあった。
なんだか今夜なら、この15年間の結婚生活でも言えなかったような言葉が、梨沙に言えるような気がした。
渋谷ストリームを越えて、渋谷川を渡る。
すると、横断歩道を渡り切ったその先に…信じられないことに、梨沙がいた。犬を2匹とも連れて、Tシャツ姿でこちらに手を振っている。
「あれっ、梨沙」
「びっくり、早いのね!ピノとポコのお散歩、夏はこれくらいの時間の方が涼しいじゃない?今日は広尾方面じゃなくて渋谷の方まで来てみたの。
だってもしかしてあなた、久しぶりにお酒飲んで倒れでもしてたら困っちゃうと思って」
「俺が倒れたら困る?」
「あたりまえじゃない!この前の入院の時だって私、気が気じゃなかったんだから!先に逝かれたら困るーって、まだまだ一緒にいてもらわないと困りますーって私もう──って、それはいいのよ。…ねえ、なんで笹持ってるの?」
どうして僕は、こんなに簡単なことを難しく考えていたのだろう。
「もしかしてプロテインと間違えちゃった?」と僕の酔い具合を伺う梨沙の顔は、本当に心配そうだった。
昔みたいに戻る必要なんて、きっとない。
僕はもう45歳だ。それならば、45歳の今の気持ちを伝えればいいだけなのだ。
「笹は、梨沙にだよ」という言葉こそが、僕たちの新しい話題になる。
息子の話でもない、犬の話でもない。
僕たちだけの花束の話をしながら夫婦で歩く帰り道は、それだけで、45歳らしい大人のデートだ。
▶前回:美食三昧だったCAが医者と結婚。子どもが生まれ「こんなはずじゃなかった」と思ったワケ
▶1話目はこちら:2回目のデートで、32歳男が帰りに女を家に誘ったら…
▶Next:7月14日 月曜更新予定
次回最終回。渋谷のバーで愛について語った、52歳の物語。
この記事へのコメント
白川のオッサン、まだ言ってるのかいww
「あの女。贅沢な暮らしもさせてやってたし精一杯うまくやってきたじゃないか」
うるせー
そうだよね、七夕の夜とは言え...しかも奥さん「プロテインと間違えちゃった?」って😂 まぁ笹はきっとそんなに嬉しくなかったと思うから今度ちゃんとした花束買ってあげて♡