マティーニのほかにも Vol.1

信州大を卒業してメガバンクに就職した22歳女。上京して初めて、三軒茶屋のバーに行ったら…

「ちょ…お姉さん、MI6のスパイなの?」

「え?へ、変ですか?」

「いや、全然変じゃないよ。映画好きだから、カッコ良くてビックリしちゃって。急に笑っちゃってごめんね」

そう弁明する男性の笑顔に、嘲笑のニュアンスはない。

けれど早紀子は、渾身の注文がどうやら適切ではなかったことを知り、顔を真っ赤にしてうつむく。

― やだ。私、変な注文しちゃったんだ。どうしよう。やっぱりバーなんて、今の私には似合わなかったんだ…!


「すみません…私、バーは初めてて。何を頼んだらいいかわからなくて…」

身を縮めながらボソボソと呟く早紀子は、恥ずかしさのあまり店から駆け出してしまいたい衝動に駆られる。

けれど、そんな早紀子にバーテンダーがかけたのは、まるで何事もなかったかのように飄々としていながらも優しい声だった。

「バーは初めてなんですね。そんなに緊張しなくて大丈夫。本当にウォッカ・マティーニがお好きならお作りしますけど、お客様のお好みを教えていただくおまかせでもいいんですよ。

バーにはいろんな一杯がありますからね。マティーニのほかにも」

「そうなんですか?じゃあ、お任せでお願いします」

バーテンダーの一言に救われた早紀子は、頬を真っ赤に染めたまま、たどたどしく好みを伝えた。

お酒には比較的強いこと。サッパリしていながらも甘めのものが飲みたいこと。

そして何より、バーという背伸びした場所で、はじめの一杯として注文するのに恥ずかしくないものを知りたいこと…。

「わかりました。では、こんなのはいかがでしょう?<ネグローニ>でございます」


程なくして早紀子の前に出されたのは、バカラのロックグラスに満たされた、真っ赤なカクテルだった。

まるで夜の東京タワーのような、美しい赤色。

「わ、綺麗…!」

「ネグローニは、カンパリとベルモット、ドライジンを使ったカクテルで、世界中で最も飲まれている人気の一杯です。

どんなバーに行っても、ネグローニなら絶対に笑われることはありませんよ。…そもそも、人の注文を笑う方が100%マナー違反ですけどね。翔平さん?」

バーテンダーはそう言って、先ほどのマティーニを笑った男性をジロリと睨む。

翔平と呼ばれた男性は心から申し訳なさそうに、何度も早紀子に向かって頭を下げるのだった。

恐縮しながらも翔平からの謝罪を受け入れた早紀子は、ネグローニのグラスを恐る恐る手に取る。

「いただきます」

そっと唇に近づけると、ふわっとオレンジの爽やかな香りが早紀子の鼻をくすぐった。

ドライでありながらも甘くほろ苦く奥深い複雑な味わいが、舌を滑り落ち体の中心へと流れ込む。

その言い得ない美味しさに、思わず早紀子はうわずった声を上げた。

「おいしい!私これ、絶対おかわりします」

初めて口にする本格的なカクテルに感動した早紀子は、焦りに駆られてグビグビとグラスを傾ける。

ネグローニが美味しかったことはもちろんだが、この5日間バイブルよろしく熟読してきた『初めてバーに行く人ガイド』には、「バーに失礼なので、必ず2〜3杯は頼むこと」とあったからだ。

明日も出社を控えているため、もしも3杯頼むのならばペースを上げなければいけない。

けれどそんな早紀子の焦りを見抜いてか、バーテンダーはまたしても柔らかな口調で早紀子を落ち着かせるのだった。

「ゆっくり飲んでいただいて大丈夫ですよ。ネグローニは、ロングカクテルです。

ロングカクテルの“ロング”は、グラスの長さではなく時間の長さ。グラスに氷が入ってるでしょう?しばらく冷たいままなので、焦らず時間をかけて味わってください。

もちろん、ご注文は1杯だけでも大丈夫ですからね」

「そうなんですか…」

早紀子は、宝石のようなネグローニのグラスを改めてゆっくりと傾ける。

26度と強めのアルコールが、時間をかけて早紀子の心をほどいていく。

まだ慣れない仕事。どこか馴染めない同僚。

東京に来てから知らないうちに感じていた焦りが、だんだんと消えていくような気がした。

気がつけば、先ほどまで肌寒さを感じていた体が、ほんのりと温かい。

ほろ酔いの心地よさに身を任せた早紀子はふと、つい先ほどまで緊張でガチガチになっていた自分を思い返す。

― そっか、わかった気がする。バーって、忙しい毎日の中で、本当の自分自身に向き合える場所なんだ。

ゆったりとした時間を楽しむ早紀子だったが、深呼吸のようにネグローニの柑橘の香りを深く吸い込んだ拍子に、ふと気配を感じた。

視線をあげると、先ほどの翔平がこちらを見ている。

しばらく視線が絡んだあと、翔平はおずおずと声をかけてきた。

「あの…さっきは本当に失礼しちゃって、ごめんなさい。良かったらそれ、ご馳走させてください」

「そんな、いいんです!あの、映画お好きっておっしゃってましたよね?実は私も映画が好きで…」

ぽつぽつと行き交う会話が熱を帯びて、ネグローニの氷を溶かしていく。

バーの心地よい雰囲気の中、早紀子は思うのだった。

― それから、バーってもしかしたら…。新しい自分に出会える場所でもあるのかも…?


▶他にも:「写真と動画をあげるだけで月200万?世の中狂ってる」夫より稼ぐ31歳妻に、外コン夫が怒り爆発

▶Next:5月22日 水曜更新予定
早紀子がバーで出会った翔平。彼のバーにまつわるストーリーは…

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この記事へのコメント

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No Name
グルメ雑誌の小説らしい連載! 早紀子のスレてない感じは、いい意味で東カレらしくなくてとても好印象。来週は翔平ってまた主人公リレーなのはやや不安だけど楽しみ。
2024/05/15 05:2056
No Name
いいねぇ。 下手に「アッパー層のリアル」を意識し過ぎて不自然な設定になった話より、こんなほのぼのした話で十分満足♡
農学部で研究しててメガバンクへ就職したのね。 そう言えば最近、知子や直子に早紀子etc クラシカルな名前が続く。
2024/05/15 05:3255返信1件
No Name
「ボンドマティーニ」のことだね。
『007』の主人公ジェームズ・ボンドが好むウォッカマティーニ。
2024/05/15 05:2338
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