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「えー!小松さん、クラブ行ったことないんだ?」
「うん。私、映画とか好きなインドア派で…」
「でも、長野にだってクラブぐらいあるでしょ?あ、わかった。クラブじゃなくてバーとかの方が好き?」
「えっと…バーも行ったことないかも。居酒屋とか、ファミレスには行ってたけど」
「え〜うける!小松さん、高校生みたいでなんかかわいいねー」
信州大学を卒業し、メガバンクへの就職を機に上京してひと月。
大勢いる同期たちとは金曜日が来るたびに飲みに行く流れになるものの、毎回毎回、早紀子は圧倒されてばかりだ。
― クラブにバーかぁ、みんな大人っぽいなぁ。
東京で華やかな大学時代を過ごした同期たちは、信州大の農学部で研究に明け暮れていた早紀子とは違い、飲みに行く場所ひとつとってもあか抜けている。
いや、それだけではない。見た目も、仕草も、交友関係も、早紀子はまだどこか東京に馴染めずにいる。
そして先週の金曜。同じ部署の同期数人がシーシャバーに行くという会に、早紀子は声をかけてもらえなかった。
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― シーシャバーにひとりで行くのはちょっとハードル高いけど、近所にあるバーになら、行ってみてもいいのかなぁ…。
少なからずショックを受けたその日から数日、早紀子はそんなふうに思いながら、小さなバーの看板をチラチラと横目で見る日々を過ごしてきた。
三軒茶屋の駅から一人暮らしをしているマンションの途中にある、落ち着いた雰囲気のバーだ。
そしてついに今日。早紀子はこうして、そのバーの前に立っている。
綿密に下調べをしたうえで。仕事を終えたあとにわざわざ一度帰宅して、スーツからワンピースへと着替えを済ませて。
― どうしよう。初めてのバー、ドキドキするけど…。でも、私も早くみんなみたいな大人の女性になりたい。
早紀子は小さく「よしっ」と気合を入れると、高鳴る胸を抑えながら深呼吸をし、真鍮のひんやりとしたドアノブに手をかける。
そしてずっしりと重たいドアを押し開くと、早紀子の目の前に広がっていたのは──思い描いていた“バー”のイメージどおり、薄明かりに照らされた、シンプルで洗練された空間なのだった。
― うわぁ、素敵。
モダンなデザインの照明。小さく流れる、心地よいコンテンポラリージャズ。
木製でありながらグラスを反射するほど艶めいたカウンターには、おそらく早紀子とそう年の離れていない男性が、ひとり静かにロックグラスを傾けている。
「いらっしゃいませ」
雰囲気にのまれて腰が引けそうな早紀子に対し、カウンターの中に立つ小柄で若い男性バーテンダーが穏やかに声をかける。
促されるままにカウンターの中ほどに腰を下ろした早紀子は、ドキドキとした期待に胸を膨らませながら、確信した。
― こういう大人っぽいバーで、ひとりでお酒を飲めるようになれば…オトナの女性として一人前になれるはず…!
「何にいたしましょうか?」
ソワソワと浮き足立っていることを気取られないようにしている早紀子に、バーテンダーが声をかける。
「あ、えーっと…」
早紀子は決してお酒に弱いわけではない。友人と通った気軽なダイニングバーや居酒屋では、むしろ他の女子よりもペース良く飲んでいた方だ。
けれど、来たこともないカウンターのバーとなると、一体何を頼んでいいのか見当もつかない。
そこで早紀子は、マナーや服装と合わせて事前にしっかりと調べておいた渾身の“オトナ”な一杯を、虚勢を張りながら注文するのだった。
「ウォッカ・マティーニを。ステアせずシェイクで!」
― よし、上手に言えた!
ウォッカ・マティーニを。ステアせずシェイクで。
3桁の数字をコードネームに持つ世界一有名なスパイが注文するこの一杯は、映画が好きな早紀子が調べた限りでは、バーにおいてもっともスマートな注文のはずだった。
けれど、鼻息荒く早紀子が注文を済ませた、その瞬間。
カウンターにもうひとりいたあの男性客が、こらえきれない様子でグラスのウイスキーを吹き出してしまうのだった。
この記事へのコメント
農学部で研究しててメガバンクへ就職したのね。 そう言えば最近、知子や直子に早紀子etc クラシカルな名前が続く。
『007』の主人公ジェームズ・ボンドが好むウォッカマティーニ。