2024.03.30
報われない男 Vol.7「…言わないわ。どこに行く?」
そう言いながら、京子はこの時初めて、大輝のことをかわいらしいと思った。
鮮やかな手順で教授を帰したくせに、強引に押しきることはせず、乞うように返事を待つ。その遠慮と弱気のようなものに、京子は親近感と好感を持った。
◆
「22時までライトアップされてるみたいなので…!」
うれしそうに、桜を見に行きましょう、とはしゃぐ大輝とタクシーに乗り、何やら携帯で調べものをしているその横顔を見ながら、京子は、この子は本当に美しい顔をしている、と改めて思った。
京子は職業柄、外見が美しい人に慣れている。しかも国宝級だとかNo.1だとか、とびきり美しいと言われる人達との仕事が京子の日常なので、至近距離で接してもその美しさに惑わされることがない。
そしてその外側の美しさが、必ずしも中身の美しさにつながるわけではないことを嫌と言う程実感してきているので、人を外見で判断することはない。だけど。
― その人達に…好意を向けられたことはない。
京子さんが好きです、と言った大輝の言葉には、とても現実味がなく、いまだに信じ切れずにいる。
それは、大輝のような美しい人が、一回り年下の男の子が、私なんて好きになるはずはない、というような否定からのものではなく、そもそも自分は“恋情”というものがよくわかっていなかったのだと京子は最近…崇と離れて暮らし始めてから気がついてしまった。
これまでの人生で、男性ときちんと向き合ったのは崇が初めてだった。崇と出会う前にもそれなりに男性に好意を向けられたことはあったけれど、付き合ったのは崇が初めてで、恋人、夫婦、とその関係の名前が変わることを選んできた、その選択こそが“恋”なのだと思ってきた。
― でも、違ったのかもしれない。
崇に帰ってきて欲しいと願った日。京子は確かに、自分が彼の唯一でありたいのだ、彼を手放したくないのだ、という自分の気持ちに気がついた。でも。
京子が崇から美里とのなれそめを聞いた日。最もショックを受けたのは、浮気という行為自体ではなく、崇が京子以外の才能を褒めて認めたことだった。それはつまり、“女”としての悲しみよりも、“脚本家”としての悲しみが大きかったということ。それが今、京子を混乱させている。
崇に愛していると言われて、私も、と返したことはある。でも私から…愛しているとか、好きだとか、伝えたことがあっただろうか。
― ラブストーリーをかけない脚本家。
乾いた自虐的な笑いが湧いてくる。そりゃぁそう言われるよね、私は、恋というものがよくわかっていないのだから。崇に…恋人として妻として、正しく愛情を渡せていたのだろうか。仕事のパートナーとして以外の私は、彼の心を満足させられていたのだろうか。
― 知りたい。
恋情、というものがどういうものなのか。そんな思いがふと沸き上がり、京子は大輝を見た。この青年は、なぜあんなに屈託なく、しかも妻という肩書を持つ女に、好きだなんて言うのだろう。
京子の視線を感じた大輝が、どうしました?と顔を上げてほほ笑んだ時、タクシーが止まった。財布を出そうとした京子を遮り、大輝が携帯で支払って先に降りた。
「暗いから、どうぞ」
差し出された大輝の手を取り、京子もタクシーを降りた。その瞬間強い風が吹き、京子が肩にかけていたストールが舞い上がり、京子の顔を覆った。大丈夫ですか?と、ストールを巻きなおしてくれた大輝と目が合った瞬間、京子に衝動が生まれた。
そして言った。
「教えてくれる?」
「え?」
「恋とはどういう感情なのか、あなたが私に教えてくれる?」
▶前回:「彼女と私、どっちも好きなの?」妻の質問に否定しない夫を置き去りにし、家を飛び出て…
▶1話目はこちら:24歳の美男子が溺れた、34歳の人妻。ベッドで腕の中に彼女を入れるだけで幸せで…
次回は、4月6日 土曜更新予定!
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