報われない男 Vol.3

朝6時に目が覚めると、自分の家ではないことに慌てた34歳女性。物音がする方向に行くと…

どこでもいい、と言われたので、大輝が店を選んだ。千駄ヶ谷に住む京子が帰宅しやすいように、外苑前の店を選んだ。このまま向かえば、丁度オープンの18時頃に到着できるはずだ。

店に着き、4人席のテーブルに案内されると、京子は赤ワインを頼んだ。

どんな赤ワインが好きですか、などのたわいもない会話をしながら、お互い2杯目になるころには、京子の顔に表情が戻ってきたことにホッとし、大輝は、2人きりの時間を過ごせていることに、喜びを感じ始めていた。

「先生、さっき、僕のこと大輝くん、って呼んでくれましたよね」
「…そうだった?」
「あ、ひどい。なかったことにしようとしてます?これからはずっとそう呼んで欲しいです」

大輝は自分の笑顔を、グイっと対面の京子に近づける。大輝は自分の容姿が武器になることを知っている。京子が少しでもドキッとしてくれたらいい。少しでも異性として意識してほしい。でも京子の反応は、またも意外なものだった。

「…似てるの。あなたの名字が」
「似てる?」
「さっきの女の子。夫の不倫相手なんですって」
「…不倫…?ちょっと待ってください。先生の旦那さんって…」

京子の夫は有名な演出家で、門倉夫婦はお互いの能力を高め合う最高のパートナーであるという話を、同じ業界を目指す大輝は知っていた。京子の言葉が信じられず、大輝は思わず反論した。

「もしかして、さっきの子が言いに来たんですか?あなたの夫と不倫してます、って」
「うん」
「それ、彼女がウソをついてる可能性もありますよ」

実は大輝には、ウソでかき乱された経験があった。

大輝に恋をしてストーカー化した女性が、大輝の当時の恋人に、大輝と自分は関係をもった、大輝があなたと別れたがっているので別れてくれ、としつこくつきまとった。不安になってしまった恋人の誤解を解くために、ずいぶん苦労したのだ。

その例を説明した大輝に、京子がそれは大変だったね、と言い、私も、ウソだよって言われたかったんだけどね、と笑った。

「私の場合は、夫も自白済みなので」
「…え?」
「あの子と体の関係を持ったのは事実、ごめん、って謝られてるの。夫はそれきり家に帰ってきてない。さっきの彼女の話だと、今、彼女と一緒にいるらしいわ」

黙った大輝に、笑顔のままの京子が続けた。


「彼女は長坂美里さん」
「…」
「あなたは友坂大輝くん」
「…」
「…あれ?発音してみると、あんまり似てないか。坂、だけだね、一緒なの。でもあの瞬間、なぜか、あなたの名字が口にできなかったんだよね。なんでだろ。…バカみたいだね、私」

京子の瞳に、涙が浮かんだ。

「え。私、泣いてる?いやだ、なんで?」

ゴメン、生徒の前で泣くとか最悪だね、と京子はおどけようとしたけれど、涙は頬を伝いこぼれてしまった。うわぁ、ほんとゴメン、酔っぱらってるのかも私、とハンカチをカバンから取り出し、笑いながら涙をぬぐう京子に、大輝の胸が締め付けられる。

大輝は席を立ち、京子の隣に座ると京子を抱きしめた。え?ちょっと、何?と驚き、離して、と乞う声が、大輝の胸に直接響く。大輝はその腕に力を込めて言った。

「笑わず、思い切り泣いてください。作り笑いで、自分の痛みをごまかしたらダメです」

大輝の言葉に、京子の抵抗が止んだ。そして、声を押し殺した小さなすすり泣きが始まり、それが止まるまで、大輝はずっと京子を抱きしめていた。



― 頭が痛い。

明らかな二日酔いで目を覚ました京子は、ぼんやりとした意識の中で、そこが自宅ではないことに気がつき、慌ててあたりを見渡した。

掛けられた衣服やインテリアが、男性の部屋であることを主張している。京子が今いる場所はキングサイズかな、という大きなベッド。自分の着衣を確認すると上下共にスウェット。男性のもののようで、かなり大きい。

部屋の隅に置かれているハンガーラックに、京子が昨日着ていた衣服が掛けてあった。起き上がり、その服を手に取りながら、なんとか昨夜の記憶を手繰り寄せようとしてみるものの、どうやってこの部屋にきて、ベッドに入ったのか全く思い出せない。

羞恥と情けなさがこみ上げたが、ここはおそらく大輝の部屋なのだろう。ベッドサイドのテーブルには、のどが乾いたら飲んでください、というメモと、水のペットボトルが置かれていた。

時計を見ると朝6時。京子は、自分の衣服に着替えると、部屋を出て、物音がする…人の気配がする方へ向かった。そこはリビングで、京子と目が合った大輝がパアっと輝くような笑顔になった。

「京子さん、おはようございます。コーヒー飲みます?」
「…京子、さん?」

昨日まで、先生と呼ばれていたはずなのに、という疑問に、大輝が答えた。

「あれ?もしかして覚えてない?昨日、京子さんが、京子さんって呼んでいいって言ってくれたんですよ」

講義の時はちゃんと先生って呼びますから、という大輝に、京子はそんな約束をした記憶がないと伝えたが、もう取り消せませんよ、と笑われてしまった。

「…なんで、私はここに?」
「うわ、全く覚えてないんですね。ひどい」

どこまで覚えてます?手つないで帰ったのは?オレが抱きかかえてベッドに連れて行ったのは?などの一言一言に、焦り、赤面し、とまどう京子を、大輝は上機嫌にからかい続ける。

「オレのスウェット着て寝ちゃった京子さん、めちゃくちゃかわいかったなぁ。オレ、もう遠慮しませんよ」

絶対、オレを好きになってもらいます!とウィンクをしながら、コーヒーを手渡してきた大輝に、京子は、未だに何が起こっているのか飲み込めないまま呆然とし。ウィンクが様になる日本人男性もいるのだな、と、今は絶対にそこじゃない、どうでもいいところで思考が止まり、パニックに陥っていた。


▶前回:「彼の子どもがほしい」妻の職場に届いた一通の手紙。夫のストーカーかと思い、家で尋ねると…

▶1話目はこちら:24歳の美男子が溺れた、34歳の人妻。ベッドで腕の中に彼女を入れるだけで幸せで…

次回は、3月2日 土曜更新予定!

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この記事へのコメント

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No Name
不倫相手のくせに暴走して妻を苦しめる長坂はクズでしかないし、夫もそんな女の所に行って帰って来ないとか二人して最低。
2024/02/24 06:4135返信1件
No Name
前の話の門倉の態度から考えると長坂と一緒にいるとは考えづらいけど、もし長坂の話が本当なら門倉も相当なクズ…と腹立たしい。
2024/02/24 08:0621返信1件
No Name
長坂と門倉の言うことは矛盾していないけど、長坂の暴走のような気がするんだよね。大輝も長坂と同じ立場になってしまいそうだけど、それはいいのかな?
2024/02/24 06:5018
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