銀座のバーの最終出勤日。客が引き、一旦グラスを洗おうと裏へ行こうとした時だ。
ひとりの女性客が私の目の前に座った。
― えっと…、確か山本の秘書の人だ。
いつも山本と一緒にいるこの女性秘書は、歩美。「彼女は人を見る目がある」と山本がよく褒めていたから、覚えている。
「コスモポリタンください。あなたも何か飲んで」
歩美はいつものお酒を注文し、私にも一杯勧めてくれた。私はお礼を言い、歩美と乾杯する。
― ひとりでどうしたんだろう?
そう思いながら会話を始めたが、歩美は一呼吸おいてから、私にスマホを見せた。
誰かのFacebookだ。写真に写っている女性は、45歳くらいだろうか。
「山本に奥さんがいるのは知っているかと思いますが、その奥さんが今週中に帰国するのも聞いてます?」
― えっ…!?
私は、危うくグラスを落としそうになった。
「やっぱり。知らないのね。今、山本の奥さんはマレーシアにいるんですよ。中学生の息子さんと母子留学で」
歩美からは、山本のクリニックの業績が悪いために、息子の留学先を物価の安いマレーシアにしたことなどを聞かされた。
「そうなんだ……」
私は、不覚にも泣きそうになっていた。
「大丈夫ですか?」
そう言われた途端、我慢していた涙がこぼれる。
涙の原因は、山本に嘘をつかれていたことでも、奥さんがいたことでもない。
これを理由に山本と別れることができる、という安堵からだ。そんなことを思うなんて、自分でも予想外だった。
山本とこのまま付き合っていれば、家賃を20万円出してもらえるから、この店を辞められる。
もっと楽に優雅な生活を送ることができるだろう。
高くて美味しい食事も、ブランドもののバッグもたくさん手に入る。皆がうらやむような宿にも泊まることもできる。
なのに、私は、彼と離れられることに、心の底から安心していた。
…私は今、ようやく気づいたのだ。
山本の彼女になることを、頭では納得していた。けれどきっと、心はずっと拒否していたのだということに。
愛のない男女の関係を続けるのは、しんどかった。
「じゃあ、私はこれで。ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
歩美が帰った後、私は黙々とグラスを磨いた。
私は男性を選ぶ基準を変えられないし、今より生活水準を下げることはできない。
それならば、南麻布の家の家賃を払い続けるためにここで働くことは継続しなければ。
「店長、私やっぱりまだここで働きま〜す」
精一杯の笑顔で明るく言うと、店長は、何も言わずにコクリと頷いた。
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