2022.05.23
孤独な男と女のあいだに Vol.1出会い
その夜、圭はまた、西麻布の行きつけのバーを訪れた。
珍しく女性を連れず1人で。
圭が、今日のグラスワインは何が開いているのかと店内を見渡すと、隣に座っていた女性の姿が目に入ってきた。
この界隈に多い、香水とボディラインを美しく見せる服を纏っている女性や、鋭い眼光を持つキャリアウーマン。彼女は、そのような“美しく着飾った女性たち”とは違っていた。
彼女は、ゆったりとした白いワンピースを着て、長い髪をキュッとポニーテールに結び、化粧っ気もない。
ただ、大きな目を不思議なくらいキラキラと輝かせ、慣れない様子でカウンターの椅子に腰掛けている。
圭が、この女は何者だろうかと推測をしている時、バーのマスターが彼女に質問を投げかけた。
「ユリさん、その創作意欲は、どこから湧き上がるんですか?」
質問に対しユリという女性は、こう答える。
「うーん、孤独からかもしれません。孤独が私のエネルギー源かな」
圭がふと目線をバーの壁に移すと、見慣れない絵があった。
「圭さん、その絵はこちらの女性が描かれたんですよ」とマスターが圭に説明する。
マスターが絵を購入してくれたお礼に、彼女は、バーに顔を出したようだ。
壁には、美しい海をモチーフにした油絵が飾ってある。どこかはかなげなのに、心を揺さぶられる強さがある絵だった。
「素敵な絵ですね。孤独がエネルギーなんですか?」
社交辞令ではなく、純粋に彼女の絵に興味を持って圭は尋ねた。
「ええ…」
そう言ってこちら向いた彼女の瞳に、圭は吸い込まれそうになった。
「私は、幼い頃に両親が離婚していて。私は父親についていったんです。経済的に何の不自由もなかったことには感謝はしています。
でも、いつもどこか孤独でした。その孤独を埋めるようにずっと絵を描いていたんです」
彼女は続けた。
「と言っても、本格的にこういった油絵を描き始めたのはここ2年くらい。普段は、銀行で働いています。
運良く知り合いのギャラリーで、個展を開くことができるようになりましたが、まだ私は会社員ですし、アーティストと言っていいのかわからないくらいです」
圭は、話を聞きながら自然と彼女の言葉に共感していた。
― 孤独といえば、俺も同じだな。
責任のある立場にある圭はいつも、感情を伴わず、即座に利益を優先した選択が求められる。
そんな自身に嫌気がさし、美しい女性と食事をし、ワインを飲むがいつも満たされなかった。
そして、また圭は壁に飾ってある美しい絵に視線を移す。
絵が訴える孤独な感情に、圭の心が動いた…。
「あなたは本物のアーティストだと思います」
圭はそう言うと、マスターにシャンパーニュの「サロン」をオーダーをした。
サロンの別名は「孤高のシャンパーニュ」。
白ブドウだけでつくられたシャンパーニュは繊細で、凛々しく、唯一無二の存在感がある。
「素晴らしい絵を見たお礼です。よかったら一緒に飲みませんか?」
圭と彼女のお互いの人生の中で、コンプレックスであり、原動力でもある「孤独感」を分かち合うのに、サロンはピッタリとはまったのだろう。
会話は弾み、気がついたらボトルは空いていた。
「圭さんは、温かい方ですね」
彼女が、独り言のようにささやく。
― 温かい……?俺が?
圭は人にそんなふうに言われるのは初めてだったので、反応に困っていた。
しかし、圭の返事を待たずに、彼女が突然「今日は、本当にありがとうございます」とお礼を言って店を飛び出してしまったのだ。
圭は、その勢いに呆気に取られる。
「圭さんが置いてけぼりとは珍しい」
マスターの軽口に、圭も思わず笑ってしまう。
圭は彼女の座っていた席から、まだ温もりを感じていた。
◆
数ヶ月後。
ユリとの再会を心のどこかで期待しながら、圭が1人でバーに訪れたある日のこと。
変わらずに美しい海の絵を眺めていると、突然マスターが彼女から預かったというハガキを渡してきた。
表面には、彼女の描いた海の泡のようなモチーフの絵。裏面には、ギャラリーの住所と彼女からの手書きのメッセージが書かれていた。
あの日、突然帰宅した無礼を詫びる言葉と、「サロン」に感化され、衝動的に絵を描きたくなり帰ったこと。そして、その絵が銀座の小さなギャラリーで、展示されることになったという内容が綴られていた。
個展は、銀座で2週間後に開催されるようだ。
個展の初日の土曜日。
圭は、高鳴る気持ちに気づかないふりをして、大きすぎる花束を抱えてタクシーに乗り込んでいた。
不器用な男を乗せて、タクシーは銀座の街へと走り出す。
この感情が、圭が忘れていた恋心に近いものだということを、まだ気づいていなかった。
◆今宵の1本
Champagne Salon-シャンパーニュ・サロン
フランス シャンパーニュ地方 ル・メニル・シュル・オジェ村
シャルドネのみを使用したブラン・ド・ブランのシャンパーニュ。
優良なブドウが育った年のみしか生産を許さないうえに、非常に長い時間を熟成にかける。
徹底したクオリティーの追求、追随を許さない唯一無二の美しき味わい。そのすべてが「孤高のシャンパーニュ」と言われる所以である。
▶Next:5月30日 月曜更新予定
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