「あ、掛川、ちょっといいか。会議室に」
翌週。電話とキーボードの音が響く午後2時の職場で、美津は編集長に声をかけられた。
「は、はい…!」
心臓が、バクバクと音を鳴らす。
編集長が会議室に呼び出すのは、よっぽどの話があるときだと決まっている。誤報を出してしまったとか、名誉毀損で訴えられたとか、そんな類の話だ。
「掛川、驚くかもしれないが…」
編集長の眉間に、くっきりと「川」の字が浮かんでいる。咳払いをひとつして、彼は重い口をひらく。
「異動だ。来月から、隣の編集部に。婦人雑誌の担当をしてくれ」
「へ?」
美津は、思わず気の抜けた声を出してしまった。
隣の婦人雑誌編集部は、年に4回だけ主婦向けの分厚い雑誌を出す部署だ。グルメやファッション、旅行などについてゆるゆると取材をしているイメージがある。
― 左遷?
その2文字と同時に美津の頭に浮かんだのは、自分が3ヶ月前から「そろそろ結婚するんですよ」と周囲に話していたことだった。
― え、私が結婚するから、産休に入る前に異動ってこと…?
そんなの、この時代に許されるはずがない。ムッとして反論しようとしたとき、編集長の方が先に口をひらいた。
「うちの雑誌、業績が良くなくてね。ご存知のように」
◆
1ヶ月後。美津は取材用のノートを片手に、恵比寿のビルの前に立っていた。
― え、ここにバーがあるっていうの?
婦人雑誌に配属されて1週間。異動先の編集部は、美津のイメージ通りだった。
週刊誌の編集部と比べて、忙しさはまったくない。時間の流れが3分の1くらいになったように感じられた。
そして、さっそく任されたのは恵比寿にある『BARオノギ』の店主へのインタビューだった。春号の「隠れ家バー特集」に向けた取材だ。
細い階段を下りていくと、重厚感のある扉が見えた。小さく『onogi』と書かれたドアだ。
― ここか。
3回ノックをしてから扉を開ける。カウンターには男性が立っていて、白い布巾でグラスを拭いている最中だった。
その男性こそ『BARオノギ』の店主、小野木誠司だ。
系列のバーを全国に6店舗持つ彼は、バーテンダーとしてはもちろん、経営者としても腕が立つ。
経済誌を長く担当してきた美津としては、経営のノウハウに切り込んだ取材をしたくてうずうずしてしまう。
だが、手元のノートに書いた構成案には「シングルファーザーバーテンダーの素顔」とある。
現在37歳、小学2年生の一人娘がいる彼。その半生を紹介する記事が求められているのだ。
― こういう取材をするのは、ちょっと退屈かも。
本心を隠して笑顔を作り、挨拶をする。
「初めまして。取材を担当します、掛川と申します」
名刺を渡すと、誠司は目尻を下げて何度も会釈した。
「いやあ、取材してもらえるなんて、ありがたいです」
この記事へのコメント
結婚のために女性が仕事をセーブするのが当たり前だと思っている男と、自分らしく生きていきたい女
結婚前に気づいてよかったな~と思いました。
男性だったら傲慢とか言われなそうでモヤモヤ