「そ、そんなことあるわけじゃないですか!」
マスターにうそぶくも、心の中では焦りで震えていた。
― 希実が、結婚…?
文也はすぐに経理部のあるフロアへ向かった。当番制出社かつ、ランチタイム中の誰もいないオフィスを眺める。
― あれ?あの場所は、確か希実のデスクのあった場所…。
希実のデスク周りは、ものすごくきれいに片付けられていた。以前、経理部をよく訪れていた際に見たときは、彼女のおおらかな性格上、いつも雑然としていたはずだ。
リモートワーク前に片付けたとしても、愛用の花柄のクッションまでなくなっているのは、マスターの証言を真実に近づけるものだった。
「すみません。深浦希実が退社したって本当ですか?」
ちょうど昼休憩から戻った経理部の男性社員に、文也は聞いてみた。すると彼は残念そうにうなずいた。
「ああ。つい先日ね。今は有休消化中だから、正式にはまだなんだけど…。私もびっくりだよ」
彼が言うには、出社制限で実家に帰ったことをきっかけに、結婚にずっと憧れていた彼女は同僚に内緒で動きはじめたらしい。誰もが祝福する前向きな退社だという。
だが、この状況なので送別会ができないことをその男は強く悔やんでいた。
― ということは、もう、一生会えないのか…?
◆
相手が誰なのかも聞けず、モヤモヤを抱えた文也は退社後、身体が自然と千葉方面へと向かっていた。
目指すはこの前住所を聞いた希実の実家だ。だが、最寄り駅に着いたところで急に冷静になった。
「何しているんだ、俺は…」
ここまで来て引き返すのも気が進まない。気つけに酒でも飲んで挑もうとしようにも、開いてる居酒屋は見当たらない。
― どうあがいても、もうムリなんだよな…。
文也は自棄になっていた。
『今、たまたま最寄り駅に来ている。会えない?』
気がつくと、思いもよらないLINEを希実に送っていた。『突然、何?』と驚きの返信がありつつも、なぜかすぐに希実はやって来たのだった。
「…会社辞めて、結婚するんだって?おめでとう」
現れた途端、単刀直入に文也が言うと彼女は目を丸くする。
「え、どこでそんな話を?」
「あの店のマスター。寿退社するって…」
すると突然、希実は爆笑した。どうやら、退社は事実だが、昔からの夢であったウエディング業界に進むため、学校に通うということだった。
「又聞きの又聞きで、変に伝わっちゃったみたいね」
「なんだぁー!」
全身の力がぬけ、文也はその場に崩れ落ちた。目の前では希実が笑っている。その笑顔に、もう何もかもバレバレだと察した。
「実はさ、希実のこと好きだった。会えなくてずっとつらくて…」
もうどうにでもなれとヤケクソの告白をする。だが、目の前を見ると、はにかんだように優しく微笑んでいる希実がいる。
「ふふ…。実は、その言葉をずっと待ってた」
意外な返事に文也は驚き、しばらくその場を動けない。あの頃はどんなに好意を匂わせても取り合ってくれなかったのに…。
「だって酔っていたでしょ。こういう話はお酒の席じゃ嫌だったの」
もうすぐ12月。
寒い時期であるが、一杯も飲んでいないのに文也の心と体はあたたかい。
「クリスマスは、星付きのレストランを予約するよ」
彼女を家に送る夜道で、文也はカッコつけて言った。すると希実は彼の手をぎゅっと握って微笑む。
「このご時世だし、お家でずっとイチャつこう。憧れだったんでしょ」
文也は、まいったな、と頭をかくのだった。
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この記事へのコメント
何これ、一話完結だし。
希実の魅力って?