「ねぇ、なんで…?なぜあなたのために、私が犠牲にならないといけないの?」
直樹と目を合わせずに、遠くを見つめる。視界は定まらないというのに、口は止まらなかった。
「ずっと優秀だと言われ続けて、現役で東大にも受かった。会社でも、周りの誰もが認めるほどに出世していたし、将来有望だって言われていたのよ。
ねぇ、一体何のために、私は東大出たのよ。こんな毎日を過ごすためなの?おかしいでしょう?私の人生どうしてくれるのよ!」
全てを吐露してしまってから、亜由美はようやく我に返る。
― しまった…何てことを言ってしまったのだろう…
そう思った時には、すでに遅かった。視界は涙でにじんでいる。とんでもないことを言ってしまった後悔が押し寄せる。
それでいて、解放感にも似た気持ちも確かにあった。ずっと抱き続けていた、ドロドロとした感情の解放。
あらゆる気持ちがない交ぜになったグチャグチャな状態で、亜由美はようやく、恐る恐る直樹を見る。
しかし、亜由美の気持ちをぶつけられた直樹は、一言の反論すらしなかった。
「……」
ひたすらに黙り込む直樹の瞳は、深い沼のように暗い。
― 直樹を傷つけた…?ううん、この表情は…!
静まり返るリビングで、直樹の本当の気持ちに気付いてしまった亜由美は、ただ言葉を失い立ち尽くすのだった。
全ての思いを直樹にぶつけてしまってから、1ヶ月。
ー あんなふうに当たり散らしたんだもの。もう私たち、終わりかもしれない。
そんな覚悟すらした亜由美だったが、直樹の態度は拍子抜けするくらいに”普通”だった。
お互い何事もなかったかのようにふるまい、“あのこと”には触れない。それはまるで、絶対に踏み入ってはならない、夫婦のタブーのようだった。
そんな暗黙の了解の中で過ぎていく、いつもと変わらない単調な日々。
ただ、全てが元通りになったようでいて、変わったことが2つだけあった。
1つは、直樹が仕事の話を全くしなくなったこと。
そしてもう1つは、もう、貞淑な妻になる努力を放棄したことだ。
― 私のほうが優秀なのに、これ以上我慢するのはもう無理だわ!
薄々と分かっていたことだったが、あの日、口に出してしまったことで、亜由美は確信していた。
幼いときから高い偏差値を誇り、高学歴を手に入れた。でも…その肩書は女にとって、"呪縛"でもあるということに。
そして、高偏差値な女。その呪縛に囚われているのは、自分だけではなく、直樹もだということに…。
自分より優秀な女を閉じ込めておきたい。外の世界なんて見せたくない。
あの日、直樹の瞳の奥にあったのは、そんな薄暗い男のプライドだった。
― ねえ、私…。何も分からず、夫と家族のためだけに生きられる女だったら…もっと幸せになれたの?常に高みを目指した私は、人生を間違えたの…?
それぞれの呪いにかけられ、がんじがらめになった夫婦は、これ以上一緒にいることはできない。
そう思ってしまった亜由美は、この1ヶ月、直樹に隠れてあるメールのやりとりをしていた。
その相手は…会社の人事部。
「自分は誰よりも優秀」
「たとえ愛を捨てることになっても、自分の能力を活かしたい」
そんな想いにとらわれた亜由美は、自ら、退職した会社にジョブリターン制度の制定を要求していたのだった。
亜由美は夕食作りのかたわら、先ほど届いたばかりのメールを何度も読み返す。自然と頬が緩み、笑顔が溢れる。
こんなふうに心が沸き立つような喜びを感じるのは、いつぶりだろう。
人事部から届いたメールは、こんなふうに始まっていた。
「弊社では、次年度より正式に『ジョブリターン制度』を導入します。
ジョブリターン制度は、結婚や出産、配偶者の転勤、介護などで退職した元社員を対象にした制度です。
新卒採用にも力を入れる一方で、やむを得ない理由で退職された元社員の方に再度ご活躍いただける場を…」
メールの文末に、所属していた経営戦略室のトップが亜由美の復帰を心待ちにしていることが記してあった。
その時。
玄関の鍵がガチャっと開く音がした。
「直樹、おかえり!ほら、結衣ちゃん。パパ帰ってきたよー」
いつも通りに直樹を出迎える。
できたばかりの夕食をダイニングテーブルに並べる。
離乳食もトレイに並べ、まず先に結衣の食事を終わらせる…。
そして、すべてのルーティンを終えた亜由美は、満面の笑みを浮かべながら直樹の前へと座り直した。
― 今夜こそ、直樹と仕事の話をしよう。もちろん、直樹のではなく…私の仕事の話を。
自分が職場に復帰するということは、直樹は単身赴任になるということだ。
しかし、誰よりも優秀な自分には、夫の愛よりも相応しいものがある。穏やかな生活を捨ててでも、キャリア復帰にチャレンジしたい。
たとえ直樹から別れを告げられたとしても…。
もう一度キャリアを目の前にした亜由美にとって、もはやそんなことはどうでもいい。
呪いが解けないままに、外の世界へと羽ばたく未来。
それに比べれば夫の愛など、些細なことに感じられるのだった。
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この記事へのコメント
直樹が駐在がある部署なのはわかってたはずだし、最終学歴はどうしたって変わらない。
早稲田の理工だってとても素晴らしいと思うけど、自分と同等レベルの学歴以上じゃないと人として尊敬できないなら最初から東大の人探せばよかったのに。
夫婦で同じ会社で、どちらも優秀な人材ならなおさら。
育児もデトロイト生活も、楽しんで自分の引き出し増やすことに使えばいいのに。そもそも駐在だって研究職なら単身赴任でよかったのに。
受験勉強しかしてこなかったのかな。こんなガチガチな性格じゃ仕事もあっという間に行き詰まるだろうなぁ。