今はもう、なんでもないから Vol.3

シンガポールに単身赴任中の夫には、内緒で…。娘の幼稚園受験に夢中な女が、隠していたコト

「そうなの?でも、私立一貫校ではあるあるだって言ったじゃない!」

そう食い下がる私に、和香も答える。

「うん。でも、こうも言ったよ。元カレ・元カノとは距離を置くのが、一般的には普通のことって。

夫は小中が公立で、高校はカナダ。大学はアメリカだから、私が育ってきたような“下から私立”の世界は知らない。それでも今、由香のお受験を尊重して、シンガポールで単身赴任してくれてるの。

そんな夫のこと、必要以上に心配させたくないから。今はもうなんでもないんだし、あえて言う必要はなくない?」

― 今はもうなんでもないし、あえて言う必要はない、って…。

健作と雛乃ちゃんが私に関係性を隠そうとしていたのは、和香が言うような考え方からなのだろうか。

冷めていくハーブティーを見つめながら、私は黙り込むことしかできなかった。

「健作くんにダメなところがあるとしたら、元カノを隠しきれなかったこと。それから、千秋が実はこうして思い悩むタイプだっていうことを、わかってないところかもね。

でもね。それだけ無防備だってことは、逆に考えれば本当に何の心配もないってことだよ。ただ、千秋がどうしても受け入れられないなら…」

そこまで言ってから和香は、手に持っていたティーカップをテーブルに置く。

カチリ、というカップの音と重なって、彼女の声が聞こえた。

「受け入れられないなら、別れるしかないよ」




2日後の日曜日。

私はまたしても、ハーブティーのカップを前にして無言になっていた。

「うわ〜!この写真、めっちゃ懐かしい!」

「だよなー。健作って、このときさ…」

恵比寿にある『マーサーカフェダンロ』のテラスソファー席。隣に座っている健作は、友人の深山くん・菊田くんと、思い出話で盛り上がっている。

ときおり深山くんが気を使って私に話題を振ってくれるものの、中学からの仲である彼らの会話に、そう簡単には入れない。

それでも今日は、結婚式の幹事を2人にお願いするという大切なイベントなのだ。決して笑顔だけは絶やさないよう、ニコニコしていた。

― こんなに昔の写真を持ってきてもらって、準備を始めてるけど…。来年、無事に式を挙げられるのかな。

ボーッとする時間が多いと、どうしても考えなくてもいいことを考えてしまう。

ただでさえ昨晩、和香から冷や水を浴びせられるような極論を、突きつけられたばかりだ。

眠れない夜を過ごしたせいか、あくびが出そうになる。慌てて腕に通していたマスクを、もう一度装着しようとした。

…そのときだった。

「わあ!これ、ひな?」

菊田くんの興奮したような声が、眠気を一瞬で消し去った。“ひな”は、きっと雛乃ちゃんのことに違いない。

マスクをつけながら、菊田くんが持っている写真を横目でチラッと確認する。

そこには仲睦まじく肩を組んでいる、あどけないほどに若い健作と、雛乃ちゃんの姿が映っていた。

「ちょっと、菊田!千秋さんの前で、その写真はないだろ」

「あ、やべ…」

慌てた様子で深山くんがたしなめ、一瞬だけ場の空気が重くなる。

でも当の本人である健作は、いつも通り能天気な笑顔を浮かべながら言うのだった。

「大丈夫、大丈夫!千秋さん大人だから、理解してくれてるの。前も言ったけど、今ひなって俺たちと同じ会社にいて。千秋さんも仲良くしてくれてるんだ。

うわ〜。懐かしいなあ、この写真。ひなも俺もめっちゃ若い!」

私は健作と同じようにニッコリ笑いながら、内心わずかに動揺していた。

健作の口から「ひな」という呼び名が出たことに。…会社では「立川さん」と呼んでいたのに。

― こんなどうでもいいことで動揺するなんて。私ったら、しっかりしなきゃ!

グルグルと目がまわるような混乱が、またしても私を襲い始める。

でも、このあと菊田くんが放った言葉は、そんな私にさらなる追い討ちをかけるのだった。

「へぇ〜。千秋さん、めっちゃ理解あるっすね!じゃあさ…。ここに今、ひなも呼びましょうよ!」


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結婚式の打ち合わせに、まさかの元カノを呼ぶことになり…。

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