「はぁ」と深く呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。
家庭がある既婚男性に、電話をかけるなんて、いくら同僚でもルール違反だ。わかっているのに、暇で寂しくて、ついかけてしまったことを悔いた。
「本当に、もう会えないの...?」
わずかな希望を胸に、勇気を出して聞いてみる。
私たちは一線を越えていないとはいえ、お互いに特別な感情を抱いていたのは明白だった。
その証拠に、自粛期間が始まる前は、彼とほとんどの時間を一緒に過ごしていたのは、家族ではなく私だ。
しかし優斗は、そんな過去はまるで記憶から抜け落ちているかのように、あっさりとこう言ったのだ。
「家族が大事だからね。無駄な外出も控えたいし、そばにいてくれる人を大事にしなきゃって…本当ごめん」
優斗の話を聞いている途中から、手がビリビリと震えた。
家にいる時間が増えたことで、とにかく暇になった私とは、全く違う。彼は、1日の大半を自宅で過ごすことを余儀なくされた結果、ふたたび家族と向き合うことを決めたのだ。
そうなると、私は彼にとって“必要ない人間”だと言われたかのようだ。
「…そうだよね、わかった」
物分かりがいい女を演じて電話を切った。
仕事と恋愛を切り離して考えられるタイプの人間はいいけれど、私は違う。恋愛でショックなことがあると、仕事にも影響を及ぼす。
案の定、その後は普段はしないようなミスを連発した。何をするにも心ここにあらずで、集中力も続くはずなどなく、定時ぴったりにPCを閉じる。
心は暗いのに、外はまだ明るい。
シャワーでも浴びようかとクローゼットへ向かうと、買ってから一度も着ていないナイキのランニングウエアが目に入った。
そっと手に取って、顔に押し当てる。これは、優斗と行った御殿場のアウトレットで買ったものだ。
中学時代は陸上部だったのに、最近は運動不足だと話したことを思い出す。
周りのみんなが買っていたから、真似したApple Watchもただの時計になってしまっている。
ーよし、走ろう。
そう思い立ってから、行動は早かった。髪をまとめ、ウエアに着替えて、さっぱりとした香りの香水を纏う。
気温はまだ高かったが、外へ出るというだけで清々しい気持ちになった。
自宅がある田町から、東京タワーを目指し、芝公園へ向かう。赤羽橋を通り、六本木まで来ると一気に都会感に包まれる。
呼吸を落ち着かせるため、けやき坂を歩いていると、大学時代にサークルが同じだった友人に遭遇した。
「美緒!」
「え!アユミじゃん。久しぶり〜!」
大学時代から美緒はかなり目立っていたが、今でもそれは変わらず、艶感のあるロングヘアが彼女の美しさを引き立てていた。
「相変わらず綺麗にしてるね」
「綺麗にしてるんじゃなくて、綺麗って言ってよねっ」
そう言って笑った美緒は、どことなく元気がない気がする。
彼女もすぐには帰ろうとしない。そんな中、誘ったのは私の方だった。
「…どこかカフェでも入る?」
ランニングウェアだったので、テラス席のあるカフェを探す。
普段なら聞き役に徹するのに、口を開くと自然と優斗のことが溢れ出す。
話し終わった後、美緒は私の肩を痛いくらい叩きながら言った。
「でもさ、よかったじゃん。もっと泥沼の子、何人も見てる。アユミは頭もいいし良い子なんだから、わざわざ危ない橋渡ることないって」
「そうだよね...」
「それに、奥さんの気持ちも考えてみて。自分に置き換えたら結構エグくない?」
「うん。本当その通り。始まらなくて良かった」
美緒と別れてから、また家までの道のりを走って帰った。麻布十番を通ると、仲が良さそうな夫婦や、ベビーカーを押した女の人が目に入る。
その人たちから、なぜか顔を背けている自分がいた。
優斗に対する気持ちは、人から非難されるようなものではなく、純粋な恋心。そんなふうに言い聞かせていた。ただ、出会うのが遅かっただけだ、と。
でも、そんなことはなかった。
優斗にとって、本当に大事なものは私ではない。奥さんであり、彼の家族なのだ。
東京タワーが濃いオレンジ色に輝いていて、そんなのいつも見ているはずなのに、今日はなぜか泣きそうになった。
走っていると、体の中の嫌なものが吐く息と共に出て行き、希望を吸っている気がする。
ーこれから、暇な時間は走ることに決めた。
信号が黄色になって赤で止まって、青に変わった時にはもう、心のモヤモヤは消え去っていた。
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この記事へのコメント
いい人にはこれからも巡り会えるさ😉😉
“始まらなくて良かった”って言うけど、よく言われる「どこからが浮気?」って話になると「致してしまったら」「気持ちが動いたら」「二人で出かけたら」等、人それぞれなので、“奥さん的にはエグい”けど、バレた時の慰謝料的には“一線を越えなくて”良かったね?…多分💧