
~「地元産にこだわるから個性が出る」世界中で学んだ技術で日本ワインを進化させたい~
2020年のニューリーダーたちに告ぐ
国内でもあまり注目されてこなかった山梨固有のぶどう「甲州」。
しかし、2014年、「甲州」のワインが世界最大のワインコンクール「デキャンタ・ワールド・ワイン・アワード」で金賞を受賞する。日本初の栄誉を獲得したのは、約100年前に創業された中央葡萄酒株式会社だった。
栽培醸造責任者を務める三澤彩奈氏は、世界各地でぶどうの栽培とワインの醸造技術を学びながら、地元産の「甲州」にこだわってワイン造りを続けている。
ワイナリーの長女に生まれたとはいえ、なぜそこまでワイン造りに情熱を注げるのか。挑戦の連続だった三澤氏の歩みを振り返りながら、新時代に求められる価値を探る。
金丸:本日はワイン醸造家の三澤彩奈さんをお招きしました。
三澤:お招きいただき光栄です。
金丸:今日の対談の舞台は神楽坂の『懐石 小室』です。四季に恵まれた日本の食材を存分に生かすという哲学から、日本酒だけでなくワインも日本産を軸にされています。
三澤:弊社のワインも取り扱っていただいているので、お料理と合わせていただくのがとても楽しみです。
金丸:三澤さんは山梨県で古くから続く、中央葡萄酒の家系にお生まれですよね。
三澤:ワイナリーは1923年の創業で、父が4代目になります。
金丸:女性の醸造家が世界でもまだ珍しいなか、2014年には世界最大のワインコンクール「デキャンタ・ワールド・ワイン・アワード」で日本初の金賞を受賞するなど、三澤さんは日本ワインのレベル向上に大きく貢献されています。お父様もまだ現役でいらっしゃるとか。
三澤:私はぶどうの栽培と醸造の責任者をしており、72歳になる父が社長を務めています。今は父の魂を受け継いでいるところかな、と思っています。
金丸:数年前に知人から「日本のワインなんだけど、ちょっと飲んでみて」と紹介されたのが、中央葡萄酒のワインでした。それまで「日本ワインは地味なもの」という先入観があったのですが、ファーストアタックというか、香りがすっとしていて、しかも日本に昔からあるぶどうを使っているというので、なおさら驚きました。
三澤:私たちは「甲州」という山梨固有の白ぶどう品種にこだわっていますが、どうも昔はイメージがあまり良くなかったようで。
金丸:それをいい意味で裏切られました。私は鹿児島生まれで、私の周りは焼酎しか知らないような人ばかりだったので、三澤さんのようにワイン造りの家系に生まれた人生が想像もつきません(笑)。日本のワインを背負って立つ三澤さんが、これまでどのような挑戦をしてきたのか、そして日本のワインのこれからについてじっくりお話を伺いますので、どうぞよろしくお願いします。
約100年続くワイナリー祖父も父も異業種から転職
金丸:早速ですが、お生まれはどちらでしょう?
三澤:生まれも育ちも山梨県の勝沼です。
金丸:これまでお話ししていると、かなりカチッとしている印象ですが、やはり真面目なタイプですか?
三澤:根っから真面目と言われますね(笑)。取り柄といえば、子どもの頃から植物を枯らしたことがないことでしょうか。
金丸:毎日世話を欠かさず、お水をあげていたんですね。素晴らしいじゃないですか。ごきょうだいは?
三澤:弟がいて、北海道でワインを造っています。
金丸:ワイン一家ですね。
三澤:千歳ワイナリーというところです。年1万5,000本ほどの、規模としては小さいところですけど。
金丸:ところで、初代がワイナリーを開いたのが1923年ということですが、何がきっかけで創業されたのですか?
三澤:もともとは百貨店のような商いをしていたそうですが、勝沼にはぶどうがあるから、せっかくならそれでワインを造ろう、というのがスタートだったようです。ただ、ワイナリーとして専業になったのは3代目の祖父からです。祖父は家業を継ぐ前は、神戸で銀行に勤めていました。
金丸:手堅い銀行から醸造家への転職、よく決意されましたね。
三澤:祖父は少し体が弱かったというのもあって、地元に戻りワイナリーの会社を設立したと聞いています。私の父も実は商社で10年間働いたのち、ワインそのものへの興味だけでなく、農村共同体についての問題意識があって山梨に戻ったそうです。
金丸:面白いですね。思いや考えには違いがあるでしょうが、2代続けて安定した職からワイン醸造の世界に。家族経営のワイナリーだからこそ、その歴史の面白さは大きなメーカーとは一味違います。
三澤:祖父や父が堅い職業を辞めて山梨の実家に戻り、ワイン造りを継いだということに、私自身もなんとなくロマンを感じていました。それがこの世界に入るひとつの動機です。