追い風がきている
ここにきて、運が向き始めている。
会食の店へ向かうタクシーの中で、氷室は自分を後押しする追い風を確かに感じていた。
彼が勤務する法律事務所は、最大手のファームには到底及ばない規模だが、ロンドンやパリ、ベルリン、ボストンといった世界の要所とのネットワークを持っており、海外案件に強いと言われている。
最近も、クロスボーダーの超大型M&Aを手がけたことで注目された。
今となっては、自分はこの法律事務所に入るべくして入った、と強く思う。
司法試験で、あの一文の解釈さえ間違っていなければ、四大法律事務所のどこかには入れただろう。だが、その四大事務所で、この歳でパートナー候補にまでなれたかと言われれば、その自信はない。
鶏口となるも牛後となるなかれ。
そんな故事成語が思い出される。
−俺の選んだ道は正しかった。
氷室は、自分を褒め称えるように呟いた。
◆
法曹界は、外資系金融やコンサルティングファームと同じくらい厳しい世界だ。成果が出せなければ、新卒であろうと肩たたきの対象になる。
また、2、3年目になっても往生際悪くしがみつこうとする連中には、美人局によるハニートラップや偽エージェントによるヘッドハンティングなど、強烈な対処法もあると聞く。
そんなバカなこと…と思っていたが、どうやら事実のようだった。
それを思い知ったのは、司法修習の同期・藤田の件。彼は真面目ではあったものの、真面目がすぎて堅物ともいうべきその人柄は、良い意味でも悪い意味でも有名だった。
そんな彼が、久しぶりに同期で飲んでいたところに、とんでもない美女を連れてきたことがあった。
藤田の恋人らしいその女は、白い肌にほんのりと赤い頰が色っぽく、その場にいた男の視線をかっさらった。皆に注目された彼女は、スポットライトを浴びた国民的女優のように光り輝いていた。
「結婚しようと思っている」
皆の前で高らかに宣言した彼は、愛おしそうに彼女の肩を抱いた。
−弁護士の肩書きって、すげえな。
あの地味な藤田があんな美女と付き合えたのは、弁護士の肩書きがあってこそだろう。弁護士連中は皆、「俺も頑張ろう」などと、密かに思ったものだ。
そんな藤田が行方をくらましたのは、それから半年後のこと。聞いたところによれば、あの美女に機密情報を漏らしてしまい、辞職に追い込まれたようだ。
最初は驚いたものだが、各方面からの情報を総合すると、どうも事実らしいということがわかってくる。そう。彼はハメられたのだ。
−そっちの方がコストかかりそうなもんだけどな。確実にクビにできるならそっちの方がいいのか…。俺も、パートナーになったらそういうことも考えていかなくちゃな。
そんな空想を楽しんでいるうちに、会場に到着したことを運転手が知らせる。
−このカードも新しくしないとな。
そろそろインビテーションがくるはずのブラックカードを想起しながら、氷室は白金色のカードを運転手に渡した。
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