「紗奈、俺と初めてしゃべったのっていつか覚えてる?」
付き合いはじめた頃、航平にそう聞かれたことがあった。記憶力に自信のある紗奈は自信を持ってこう答えた。
「いつって、あの会社の飲み会のときでしょ?」
航平と知り合ったのは、ちょうど1年半前のこと―。
営業部で働く彼と、会社の打ち上げで一緒に飲んだときだった。
会話が盛り上がっていく同僚たちからは離れて、端の席で静かに過ごしていた紗奈のとなりに航平がやってきたのだ。
人見知りの紗奈は初め緊張してしまったが、彼の軽快なトークにどんどん惹かれていったのを覚えている。
「正直、すごく積極的な人だなって思っちゃった」
そう答えると、航平は手を叩いて笑う。
「俺は思い立ったら全力だから」
その打ち上げのあと2次会に誘われ、航平たち年下のグループに混じって終電まで飲み続けた。いつも1次会で帰宅していた紗奈にとって、それは小さな冒険のようで久しぶりの楽しい夜だった。
連絡先を交換してその日は別れたのだが、翌日から頻繁に航平からLINEが来るようになり、社内でも彼はよく紗奈に声をかけるようになったのだ。
仕事の接点はそれほどないはずなのに、電話やメールでいい用件もわざわざ下の階にいる紗奈に直接伝えにくる。
―正直、彼の情熱に圧倒されちゃってたな。
さすがの紗奈もこれは彼からのアプローチであることを悟ったが、まったく嫌な気はせず、むしろ嬉しいと感じていた。
それから航平から誘われて何度か2人で飲みに行くと、ある夜彼から「付き合ってほしい」と言われたのだった。
「でも、どうして私を好きになったの? 年上だし、美人でもないのに」
それがずっと疑問だった紗奈は、思い切って航平に聞いてみた。すると彼は「紗奈は覚えてないかもしれないけど」と前置きをして、こう告白した。
「俺が前に会社の階段で分厚い書類の束を落としちゃったことがあってさ。そのとき、偶然通りかかった紗奈が一枚一枚、俺と一緒に拾ってくれて、本当に優しい女性だなって思った。実はあのときから気になってたんだよ」
そう言われてから、確かにそんなことがあったかもしれないと紗奈は思い出した。でも自分にとって当たり前の行動をしただけで、そんな印象に残ってる出来事だったなんて夢にも思っていなかった。
―航平の方が、私よりも何倍も優しいのに。
きっとこれは運命なのだと紗奈は思った。間違いなく航平は運命の人だからこそ、お互いが自然と惹かれ合った。そこに理由なんていらない。
◆
ー今日、家に行ってもいい?
ー俺ちょっと遅くなるから、先に家に行ってくれていいよ。
美雪とランチをした日の夕方、仕事が一息ついたときにそう航平にLINEを送る。
合鍵を持っている紗奈は、渋谷のオフィスを出て、彼のマンションがある代々木まで電車に乗る。夕飯を作るために駅前のスーパーに寄り、それから彼のマンションに向かった。
キッチンで夕食の用意をしていると、ドアの音がして航平が帰ってきたのがわかった。紗奈は笑顔で迎えようと玄関に向かう。
航平は「疲れたー」と言いながらスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながらキッチンの方にちらりと目を向けた。
「ご飯作ってくれてたの? ごめん、俺食べてきちゃった」
「あれ、今日って仕事じゃなかったの?」
航平は、視線を合わせないままこう答えた。
「仕事だったよ、でも帰りにお腹が空いちゃってさ」
その言葉に、一瞬紗奈は動きを止めて上機嫌な航平の背中を見た。
―いつも、食事をしてくるときは、たいてい連絡くれるのに...。誰かと一緒だったのかな。
それが気になったが、聞いたら心が狭い女だと思われるかもしれない。
紗奈は問いかける勇気を持てないまま、笑顔を崩さずに彼の上着をハンガーに掛けた。
まだこの時は、この”小さな不安”が、彼女の運命の歯車を狂わせるきかっけになるとは、想像もしていなかった。
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航平と美雪の間に何か秘密があるのか? 次回、恐るべき美雪の本性が明かされる
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この記事へのコメント
最初から出てくる後輩女性は怪しいでしかない。笑