「優愛ちゃん?どうしたの、しかめっ面して」
約束時間きっかりに、芙美子が笑顔で近づいてきた。体のラインに綺麗にそった深い藍色のニットワンピースに、耳元の少しデザインがかったパールのピアスが、上品なコーディネートのアクセントになっている。
いつ見ても、美しい人だ。
芙美子は何事においてもセンスがよく、決断力もずば抜けている。入社当時から憧れの先輩で、仕事は抜群に優秀だが天真爛漫で可愛らしいところも好きだった。
だが一方とても慎重な性質で、滅多に人に心を許さない。プライベートにそこまで踏み込んだことはないが、決断力のある賢い芙美子は、こんな風に悩んだりはしないように思えた。
それとは対照的に、優愛は、20代後半からずっとこう感じていた。
―人生が、生きづらい。
本当にやりたいこと、したいこと、は潜在的にあるはずなのに。そしてその欲求は誰よりも強いはずなのに。
それと同時に、社会のレールから、世間から外れたくないという思いが人一倍強いのだ。この年齢になって、それはまるで強迫観念のようになって、優愛を苦しめているのだった。
きっとこんな気持ち、芙美子は抱いたことがないだろう。漠然とそんな風に感じていた。
芙美子が着いて世間話や仕事の話を軽くしたあと、優愛は思い切って切り出した。
「……芙美子さん、ごめんなさい。私やっぱり、マネージャーにはなれないかもしれません。彼にプロポーズされて…この仕事自体も続けられるか、悩んでいるから」
芙美子は、優愛の瞳をじっと見つめた。
「そっか」
そっか、と言ったあと、芙美子はアイスコーヒーを飲みながら、何かをじっと考えているように見えた。
「…残念だけど。それが、優愛ちゃんの出した答えなのよね」
そこまで言って、ふっと息を吐く。
大好きな先輩を、失望させたかもしれない。そう思うと心苦しかった。
「私を信頼して推薦してくれようとしてくださったのに、本当にごめんなさい」
そう言って優愛は、深々と頭を下げた。
「…ううん」
3年間お世話になった先輩はそう言って、優愛の言葉を受け止めた。それがあまりにあっさりしているように思えて、優愛は自分勝手ながらも、少しの寂しさを感じてしまうのであった。
◆
芙美子は、次の約束まで時間があるからカフェに残る、と言った。優愛はもう1回深く頭を下げて、その場を去った。
―もう、後戻りはできない。
優愛のその後の行動は早かった。会社に退職の意思を伝え、健吾のプロポーズに“YES”の返事をしたのだった。
優愛はこのとき、選ばなかった一方のカード“B”をコースター代わりに置き去っていたことなんて、すっかり忘れていた。
▶Next:週2回配信!次回は、9月20日(金)更新予定
悩んでいるのは、優愛だけじゃなかった。芙美子のAorBとは?
東京カレンダーが運営するレストラン予約サービス「グルカレ」でワンランク上の食体験を。
今、日本橋には話題のレストランの続々出店中。デートにおすすめのレストランはこちら!
日本橋デートにおすすめのレストラン
この記事へのコメント
そして結婚か仕事かというのも今時ちょっと古い価値観ですね。
「女はクリスマスケーキ」からほんのちょっと変わっただけ。
もう令和やぞ。