その2つの話の1つ目は、勤めている化粧品会社でのマネージャーへの昇進話。この年齢でのマネージャーは、大抜擢人事だ。
もう1つは、友人の紹介で付き合いだした健吾との結婚話。健吾は日本で1番の国立大学院で博士課程を取ったあと、外資系証券会社に勤めている。
「お互い30歳になるし、そろそろ結婚しようか」
付き合って1年記念のハワイ旅行での、最終日のディナー。元々感情の起伏がなく現実主義の健吾は、「明日の夕食どうする?」と言うのと同じようなテンションで、淡々とそう切り出した。
“結婚か仕事か”なんて悩むのは時代錯誤だ、両方頑張ればいい。
ただ、現状ではまるでそう思えなかった。まず健吾が、なるべく家のことを優先してほしいと言っていること。そして優愛の勤める外資化粧品会社は激務で、上司たちはほとんどシングルか、結婚していても家庭崩壊しているか、バツイチである。
だから健吾にプロポーズされたとき、正直、ほっとする気持ちがなかったと言えば嘘になる。給料が下がっても他社に転職してマイペースにやればいい。そう思ったのだ。
だがその矢先、尊敬する上司・芙美子に昇進の話を持ち掛けられたのだった。
「優愛ちゃん、話があるの」
芙美子は、業界でも知らない人はいない伝説のPRウーマンだ。この業界には珍しく、”裏表がない”と、誰も彼女の悪い評判は聞いたことがなかった。
優愛も入社以来ずっとお世話になっており、尊敬している上司だ。芙美子も優愛を可愛がっており、仕事中は苗字で「倉木さん」と呼ぶが、このときは優愛の緊張を察したのか「優愛ちゃん」と切り出したのだった。
「あなたを、来期のマネージャーに推薦したいんだけど」
芙美子はそう言ってにっこりと微笑む。優愛の大好きな、ふわりと目をほころばせるいつもの笑い方だ。
「あ…ありがとうございます」
それを言われたとき、優愛は戸惑いを隠せなかった。嬉しくないわけではなかったが、つい先日受けた健吾からのプロポーズが頭をよぎる。芙美子はその様子をすぐ察し、今度お茶でもしながらゆっくり話しましょう、とだけ言ってその場は終わった。
30歳になる直前の1か月間に起きた、怒涛の2つの出来事。
この1か月間いくら悩んでも、答えは出なかった。そして自分の行く末に悩んだ優愛は、ある決心をしたのだった。これからの5年、35歳までの未来日記を書いてみよう、と。
未来日記に書かれていることは、自分の意志とは関係なく忠実に再現する。その発想は、小学生のときに見ていた大好きなバラエティ番組を模した。
その番組のテーマ曲となった人気バンドが歌う切ないラブソングは大ヒットして、その曲にうっとりと耳を傾けていたことを昨日のことのように思い出した。
何度も修正してようやく完成した2つの未来日記には、正反対の未来が書いてある。
<A>
・健吾と結婚して、幸せに暮らす。
・子供を2人作って、実家が近い田園都市線沿いで子育てをする。
・いまより給料は落ちても、それほど忙しくない会社に転職。
・家庭を中心とした、穏やかな日常を過ごす。
<B>
・マネージャーに昇進。
・ローンを組んで都内にマンションを買う。
・いまより何倍も忙しくなるが、きっと刺激的な日々。
究極のAorB。それぞれをまとめた内容を2枚のカードに転記し、優愛はそれをじっくりと眺める。
そして優愛は2枚のカードを目をつぶってシャッフルした。ドキドキしながら、2枚のカードの感触をじっくりと確かめ、大きく深呼吸をして1枚を引いた。
―…………。
目を開けてカードを見た瞬間、つまりそれは人生の大きな選択をした瞬間であるのに、特に何の感情も湧かなかった。
優愛は決めたカードをこっそり鞄にしまい、選ばなかったカードは、氷が溶け切って水滴がたっぷり含まれたグラスの下に、コースター代わりに忍ばせた。
会社近くの、裏道を1本入ったところにある小さなカフェ。芙美子との約束は、5分後に迫っていた。
この記事へのコメント
そして結婚か仕事かというのも今時ちょっと古い価値観ですね。
「女はクリスマスケーキ」からほんのちょっと変わっただけ。
もう令和やぞ。