仕事で築いてきた自信が失われていく恐怖
埼玉の実家に帰省してから1か月が経ち、今日は、運命の出産予定日。
なのに、張り詰めたお腹に変化の兆しはまるでなかった。
この片田舎で、50代後半になる翠の母が朝昼晩の夕食から洗濯物まで、家事の一切をきりもりしてくれる。
翠のやることといえば、朝起きて、テレビのニュースを流し見て、スマホを触り、午後に駅前に一軒だけあるカフェまで毎日歩くことぐらいだった。
旦那の大樹は週末に埼玉まで顔を出しに来るが、仕事の予定が入れば会えない日々が続く。地元の友だちたちも平日は忙しく働いていて、連絡するのも遠慮してしまう。
自分の両親以外は誰とも会えない。話せない。
綺麗にパーマをかけていた髪もバッサリと切った。ネイルもまつげエクステも外して、メイクをする機会もない。
ーあれ…?
気づけば私は、小さな違和感を抱いていた。思い描いていたような”夢のマタニティライフ”と現実が、異なることに気がついてしまったからだ。
毎日20分歩いて、ようやくたどり着く駅前のカフェに行くことが、唯一の外出だった。そこにはいくつかの女性誌が置いてあり、“28歳からの可愛くてリッチなおシャレ人生”という言葉に視線が吸い込まれた。
翠はちょうど28歳だったが、ここに載っているモデルたちが見せる笑顔が眩し過ぎて、思わず目をそらした。
つい1カ月前までは、東京で幸せに包まれていたはずの自分が、どうしてこんなにみすぼらしい気持ちになるんだろう。東京で、仕事で築いた自信がどんどん消え失せていくような虚無感が、時折翠を襲うのだ。
そう思ってから、ハッとした。
―そうだ、この子を産むために生きているんだ。私は母親なんだ。
きっと、いわゆるマタニティハイになって、少し浮かれすぎていた部分があったのかもしれない。そんな自分を恥じたのだった。
◆
息子が生まれたのは、その翌日だった。
いつもと変わらず駅前のカフェにいてふと立ち上がったとき、お腹が縮むような感覚に気がつき身が震え、そこから急いで病院に駆け込む。
生まれたのは明け方で、健康な男の子。名前は颯太、と決めていた。
うぶ声をあげたあと、息子はすぐ助産師に別室へ連れていかれる。大樹は出産に立ち会ってくれたものの、なすすべなくうちわを仰いでいただけだった。
息子が連れていかれた後も、翠は涙を流しながら分娩台の上で天井を見上げていた。
意識が朦朧とするほどの痛みと、苦しみと、吐き気。それらを受け止めながらも、早くあの小さな命をこの胸に抱きたいと思った。
やっと出会えた喜びに心を震わせながら、しかし起き上がることさえできない自分の無力さを痛感するしかなかった。
この記事へのコメント
生後半年で、離乳食を公園で食べるってのが気になる。
まだ10倍粥が始まったばかりの頃のはず、、、