“不良妻”への目覚め
「ねぇ、石田さんとはどう?」
仕事の合間のランチで、玲奈が含み笑いを投げる。
古い友人である彼女は広告代理店で働くママで、麻美を既婚者の集いに引き込んだ張本人だ。同じ鬱憤を抱える女同士、絆は日々強くなる。
つい最近まで、麻美は他人に夫の悪口を言うのは自分の恥のような気がしていた。だが一度、玲奈につい愚痴をこぼしたが最後、止まらなくなった。
—軽めのサイコじゃん、それ!
さらにそう笑い飛ばされたとき、晴れ渡るような爽快感があった。
以来、悪巧みの近況報告と夫の悪口で盛り上がるのは2人の日課になっている。
「うん、たまにゴハンいってる〜」
麻美はそう答えたが、つい先日、とうとう石田とホテルにまで行ってしまったことは流石に黙っていようと思う。
“妻”という身分で夫でない男と関係を持つのはどんな大事かと思ったが、案外たいしたことではなかった。
石田はさらに優しくなったし、雄一は深夜に帰宅した麻美を待つことなく、規則正しい寝息を立ててスヤスヤと眠っていた。
—男の人とちょっと遊ぶのなんて、サプリみたいなものだよ。
玲奈はそう言っていたが、麻美に起きた変化と言えば、たしかに肌艶が増したような気がすることだけだった。
◆
そもそも“不良妻”という性分が、これほど自分に合うとは思っていなかった。
繰り返しになるが、麻美はこれまで真面目な人生を歩んできたのだ。
家庭環境は円満で、父と母が喧嘩をする場面など見たことがない。中学から大学まで通った女子校も校則は比較的厳しく、貞操観念も強く植えられたと思う。
独身時代は、浮気も一夜限りの関係の経験もない。
麻美は長いこと幸せな結婚を夢見ていて、自分も両親と同じく愛情溢れた家庭を築くと信じていた。
けれど現実は違った。
夫は冷たく、子どもも産めない。夫婦睦まじく食卓を囲むこともほとんどない。
だが理想とは程遠いけれど、麻美は意外にも今の生活を気に入っている。
南麻布の小綺麗なマンションに住み、表面的には評価の悪くない夫がいて、まぁまぁ裕福で自由があり、そして愛してくれる男もいる。
—麻美、来週は西麻布にできた『TEN』に行こうよ。すっごいゴージャスな焼肉でさ、絶対に気に入るよ。
風呂上がりの肌に念入りに美容液を伸ばしていると、石田からLINEが入った。
この店も会員制だそうで、化粧室にはエルメスやティファニーのアメニティが並ぶ豪華な内装だという。
—わーい、楽しみ。
すぐに返信しながら、ついでにシートパックもしようと麻美の心は踊る。
一体、真面目に生きていて何の得があるだろう。
夫に苛立ち噛み付いても理想の結婚生活は手に入らないのだから、こうして違った角度から人生を楽しみ、穏便な日々を過ごす方がずっと良い。
すると、続けて石田から着信があった。
雄一は相変わらず多忙のため麻美は夜も自由だが、彼がわざわざ夜に電話をかけてくるのは珍しい。
「はーい」
そして通話ボタンを押した瞬間、なぜかガリっという音が鼓膜に不快に響いた。
「宮内麻美さんですよね」
それは石田ではなく、石田の妻に違いないと直感で分かった。
「あなた、自分が何をしているか、分かってますよね」
ヒステリックな女の声に詰められ、軽い目眩に襲われる。
「もう、あなたの家も勤め先も、ご主人の勤め先も、ぜんぶ分かってますから」
女は早口で、まくし立てるように麻美を責め続けた。
麻美は狂気を含んだ女の金切り声に凍りつき、言葉を失い震えることしかできない。
そして自分は、とても大事なことを一つ忘れていたのだと気づく。
世の中には、石田の妻のように、夫をきちんと愛している女も存在することを。
▶NEXT:7月17日 水曜日更新予定
“軽いサイコ”と言われた雄一は、一方で…
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この記事へのコメント
全て失うコカインみたいなものなのに。
二面性とかふざけた事を言ってないで、さっさと離婚が先でしょう。